大規模な軍事作戦の後、陥落したアカネイア・パレスの広間には、軍議用のテーブルがいくつか持ち込まれ、この地方の詳細な記録が記載された地図が乗せられていた。色違いの駒がいくつか置かれ、そこに視線を落とすのはグルニア黒騎士団の団長を務めるカミュ将軍だ。周囲には、彼の麾下にある将校と将兵が集い、主だった将校はカミュと同じくしかめつらしい顔で地図に視線を向け、様々な策を練っている。
見渡す限り、グルニア将兵の鎧ばかりだ。本来の主であったアカネイアの象徴はすでに失われ、似つかわしくない異国の鎧を纏った者たちばかりが集っている。グルニア王国の精鋭の戦士たちは、重苦しい空気に満たされる中、指揮官であるカミュの指令を待っていた。
外では、朝から降りしきる雨が激しさを増し、時折、唸るような風の音が石壁に反響する。雨音も激しく叩きつけ、嵐が戦後間もないアカネイア地方を襲っている。
この天候は、戦火からの復旧作業にとって時期的によくない。戦火の煙こそ消すかもしれないが、軍靴や蹄で荒らされた土地には厳しい結果が待っているだろう。一刻も早い復旧が急務だと、カミュは優先事項の目途を立てるため、運ばれてきた報告書に目を通しながら、駒を動かした。駐留部隊の割り当てを振ったそれを、的確な場所に配置するのに頭を悩ませる。勝手知ったる場所ではないだけに、パレス城内に保管されていた資料と地図とを突き合わせて、人員を割り振らなければならない。
治安維持、復旧工事、配給、巡回、怪我人や負傷兵の保護、戦災孤児の行先の確保――やることは山積みだ。アカネイアの残党、火事場泥棒への警戒、そして、広間の片隅にいる女性の警護の人員の確保は急務で、そのことにも頭を悩ませる。信頼の置ける人物の選定に心当たりはあるが、その任務を引き受けてくれるかは本人次第だからだ。
しかしカミュは、そんな悩みをおくびにも出さず、的確な指示で配置を進める。将校は任務を受けると、配下の者を従えてすぐさま出発していくが、それでも残る将兵はまだ多く残っていた。それだけの人員を確保して、彼はパレスを陥落せしめたのである。
そんな軍議を離れたところで見守る、小さな影があった。広間の片隅で、簡素な椅子に座っているのは、ニーナ王女だった。彼女は目立たぬよう身を潜め、おとなしく腰をおろしたまま、口を噤んでいる。
何故高貴な王女がこんな場所に臨席しているのか――それは彼女の命を狙うであろう、ドルーアの刺客を警戒しての事だった。いつ現れるともしれない脅威から身を守るには、出来るだけカミュ将軍がいる場所に同席するのが最も安全だと悟っていたからだ。そのためには、例え居心地がどれほど悪くても、耐えるしかない。彼女の存在に気づいたグルニア将兵は、冷ややかな視線を向けてくるのは相変わらずだった。長年の不満は彼らの心の奥底でいつまでも燻っているのだ。ただ、指揮官であるカミュがニーナを保護することを決めた以上、彼の目を気にして、敵意を剥き出しにしてくるようなことはなかった。しかし、ニーナの心を凍えるような気持ちにさせるには十分だった
ニーナはその視線を全身に浴びながら、出来るだけ平静を保とうと試みていた。背筋を伸ばし、王族としての矜持を保ちたい一心で。しかし、その意気は、突如として空を引き裂くような轟音によって、あっけなく打ち砕かれる。
ドオンッ!
パレス全体が震えるほどの雷鳴が、頭上で炸裂した。歴戦の将兵たちの間にすら、わずかに動揺が走るほどの轟音だった。その瞬間、ニーナは小さく、しかし明確な悲鳴をあげた。
「ひっ…!」
彼女のか細く高い声は、張りつめた軍議の空気を破るように響き渡る。グルニア将兵たちの視線が一斉に、音源であるニーナへと向けられた。彼らの視線が無遠慮に突き刺さるのにも構わず、両手で耳を塞ぎ、身を縮めてぶるぶると震えていた。高貴な王女としての気丈さは失われ、完全に恐怖に支配されている。明らかに普通ではなかった。
カミュは、発言を続けようとした将校の言葉を途中で遮った。他の将兵たちと同様に視線はニーナへと向けられている。彼の顔には、微かな困惑の色が浮かんだ。このような公の場で、ニーナが感情を露わにすることは、ほとんどなかったからだ。
彼女は常に毅然とあろうとしていた。最後に残った王族の誇りを体現しようと、立派に務めようとしていた。それが、今はどうだ。彼女はそれすらもままならぬ状況に陥っている。何があった? 疑問がカミュの脳裏を支配する。
カミュは静かにニーナに近づいた。将兵たちの好奇の視線が、この異常な状態に集中している。
「ニーナ王女」
カミュが呼びかけた。その声は、指揮下にある将兵たちに向ける威厳あるものとは異なり、どこか固い響きを帯びていた。しかし、ニーナは顔を上げず、震える声で何かを呟く。
「砲撃の音が……」
カミュの足が止まった。その言葉に、彼の瞳に鋭い光が宿る。「砲撃の音」──その言葉が、このパレスがグルニア騎士団によって攻城戦に持ち込まれた、凄惨な戦の日々をニーナに思い出させたのだろう。
事実、グルニア騎士団が所有する攻城兵器は何度も使用され、パレスの外壁に幾度も着弾した。主に投石器が使われ、その振動や衝撃は、今、外で轟音を立てる雷鳴と酷似しているのだろう。だからこそ、ニーナの心に深く刻まれたばかりの戦の記憶を呼び覚ました。
細い身体が小刻みに震えている。遠くで轟く雷に怯えながら、恐怖に満ちたか細い声音で、うわごとを口走った。
「まだ…まだ終わらないの…? あれが…また…」
彼女は明らかに錯乱していた。顔色は青ざめ、唇が戦慄いている。カミュは一瞬の逡巡の後、即座に決断した。このまま軍議を続けるべきではないと悟った。何より兵士たちの好奇の目が、ニーナの尊厳をさらに傷つけるだろう。彼は冷静な声音で、広間全体に響く声で命じる。
「これにて本日の軍議は閉じる。将校、将兵ともに持ち場へ戻り、守備を厳とせよ!」
命令が響き渡るや、広間にざわめきが走った。集っていたグルニア将兵たちは戸惑いの表情を見せるが、指揮官の厳命に逆らう者はいない。彼らは一斉に起立し、軍靴が石床を踏み鳴らす音が重なり合う。規律正しい退場の行進とともに重い扉が次々と開閉し、広間は急速に静寂を取り戻していった。人影が薄くなるにつれ、カミュはニーナに一歩、また一歩と近づく。そして、彼女の前に跪くと、その華奢な身体を支えるように震える肩にそっと手を置いた。
「ニーナ姫。大丈夫だ。あれは雷だ。砲撃ではない」
彼の声は、これまでの冷徹な命令口調とは打って変わり、限りなく優しく、そして力強く、彼女の耳に届くように語りかけた。
「パレスは安全だ。もう、誰もあなたに手出しはできぬ。戦は、終わったのだ」
ニーナはゆっくりと顔を上げた。その瞳にはまだ涙が滲み、恐怖の色が残っていたが、カミュの言葉と、その温かい手の感触に、わずかながら現実に戻ってきたようだった。
「カミュ将軍…」
彼女の震える指先が、カミュの軍服の袖を掴んだ。彼はその小さな手を優しく包み込み、ゆっくりと立ち上がらせた。
「さあ、ここを出よう。あなたを休ませる」
カミュはニーナの体を支えるようにエスコートしながら、静かに広間を後にした。残されたのは、雷鳴と、二人の間に流れる重くも確かな、庇護の空気だけだった。小刻みに震える小さな手が、はらはらと頬に伝う涙が、カミュの心に小さな楔を残していく。この王女の身に刻み込んでしまった己の罪を、改めて実感させられた出来事だった。