ヘリオトロープの献

 いつも近くにいてくれた人たちが去っていく。父王が任命してくれた者たちだった。ニーナの傍にいつも控え、時に笑いあい、時に励ましあった親衛隊の者たち。そして、父王や彼女を含めた王族を信仰面で支えてくれたボア司祭が、遠ざかっていく。彼らの両腕には縄が打たれ、虜囚として連れていかれようとしている。腕に食い込んだ縄が見え、まるで自分の胸をもぎゅっと締めつけるようだ。
 ニーナは苦しい胸の内を悟らせないようにしながら、小さくなっていく背中を見送る。それでも、瞳は勝手に潤んでいった。
 ――泣いてはいけない。
 震える身体を叱咤させ、ニーナはまっすぐに前を向いた。気丈に、凛と立つ。王女としての矜持をみせなくてはと、背筋を伸ばした。
 そして、一度、二度と瞬きをした後、彼女は傍らに立つ男へ視線を向けた。背の高い、しかしたくましい彼は、思っていたよりも若い男性だった。噂で聞くのとはまるで違う。しかし、その噂通りの人物であることは一目瞭然だった。低くよく通る声は威厳を保ち、背筋をびしりと伸ばさせる圧にも満ちている。部下に指示をするのに慣れ、次々と人を動かしていく様は、命令することに慣れている者のそれだった。
 だがその声も、今のニーナには遠い世界の出来事のように聞こえる。それもこれも、ニーナが今置かれている現状が、まるで嘘の出来事のようだったからだ。
 一度はこの命を終わらせようとした試みは、失敗に終わった。彼にも止められた。あの瞬間の悲しみや口惜しさ、憎しみの激情はゆっくりと過ぎ去りつつあり、ただ生かされているという現実味だけがニーナの心に影を落としている。――なぜ、生き残ってしまったのだろう。生きなければいけない理由はできたのに、その事実が鉛のようにニーナの胸の奥に凝っていく。喉の奥で息が詰まるような感覚を覚えた。
 すでに父も母も亡い。その事実を受け入れがたい反面、すでに受け入れている自分がいることに、ニーナは気づいていた。……ああ、苦しみがさらに増した気がする。
 けれど、潤んでいた瞳からは、涙がこぼれなかった。



 アカネイア王家の最後の生存者、ニーナ王女を保護したカミュ将軍は、やや斜め後ろに佇む彼女の気配を感じながら、迅速に事態の収拾にあたっていた。いまだ城内で抵抗を続けるアカネイア兵に投降を促し、一刻も早い争乱の終結を急がせ、この小部屋近辺の安全を確保して、ニーナを連れ出さなければいけない。
 宝物庫にほど近いこの小部屋は狭い。こんな場所に逃げ込むしかなかったのを考えれば、いかに彼女が切羽詰まった状況に陥っていたのか手に取るようにわかる。心底、間に合ってよかったとカミュは安堵していた。
 もし間に合ってなかったらと思うとぞっとする。アカネイア王家には思うところはあるが、まだうら若い乙女の命を散らさせるには、騎士として許しがたい事でもあった。ましてや、これほどの麗しい姫ならばなおさらだ。国民にも慕われているとも聞く彼女は、今後の未来の希望でもあった。何においても、守らなければならない存在だと、一目見て感じた。
 しばらくして、近辺の安全が確保されたことが報告されると、カミュはゆっくりと後ろを振り返る。佇むニーナに手を差し伸べた。
 彼女はゆっくりと瞬きをして、不思議そうにカミュを見上げる。激情が過ぎた後で、どこかぼうっとしていた彼女に無理もない、とも思った。
 たった一日で目まぐるしく環境が変わってしまったのだ。父王は亡くなり、親衛隊はすべて虜囚となり、一人ぼっちになってしまった哀れな亡国の王女。頼るよすがも失い、今は王女という身分だけが彼女の存在意義だ。けれども、その身分は今はとても重要でもある。彼女自身を守るために。
「では、行こうか、姫。ここでは休まらないだろう。すぐに専用の部屋は整えさせるが、今は別の部屋にいてもらおう」
 カミュはそう告げた。ここには座る場所もない。疲れ切っているだろう女性には酷な場所だ。
 混戦の跡の色濃い城内は、ここに来るまでに確かめていた。激戦の跡がすさまじい場所もあった。どの部屋も折れた矢に欠けた刃の欠片が落ち、槍の柄や使い切った魔導書があちこちに散らばっていた。一歩進むのも困難なありさまの場所もある。とはいえ、柱や天井は元の壮麗な内装の痕跡を残し、元来美しい回廊や部屋だったことを物語っていた。それを目の当たりにするだろうニーナの心情も慮って、急いで通路を整えさせたが、血の跡は拭いきれなかったようだ。
 カミュの手に恐る恐る触れたニーナは、ふらりと一歩その足を進めた。しかし、その足はすぐ止まってしまう。
 カミュは訝しがり、通路の方へ視線を向けた。通るには不自由しないだろう程度には、きれいになっている。それでも、ニーナの足は止まったままだ。
「…姫?」
 小声で声をかける。しかし、ニーナは黙ったままだった。しかし返答の代わりに、カミュの手に乗せた手が…小刻みに、震えている。
 怯えているのだと、わかった。何故か…カミュはやがて、その理由を知ることになる。
 ニーナに向かう視線が、すべてを雄弁に物語っていた。彼とともにアカネイアを陥落させた祖国グルニアの兵たちの、鋭い視線だ。今この場にいるのは、その多くがカミュの部下たちだった。アカネイアの兵はもう誰一人として残っておらず、虜囚となった親衛隊の者たちの姿は疾うに消え、一人残された亡国の王女は、その一身に悪意の視線を無防備に受け入れるしかなかったのだ。
 青ざめて唇を震わせるニーナに、カミュは眉を寄せた。
 グルニア兵の気持ちはよくわかる。長年アカネイアには搾取され続けてきた。理不尽な要求を飲まされ、煮え湯を飲まされ、苦しめられ続けてきた者たちだ。それゆえに、アカネイアの王女の姿を前にして、恨みや憤怒が表情に浮かんでも仕方のないことだとも言える。――しかし。
 もう戦争は終わった。アカネイアは陥落し、王城の支配権はドルーア帝国に移った。ニーナの祖国は滅亡したのだ。彼女は今、一人の年若い女性に過ぎない。名目上の王女でしかない。
 カミュは立ち竦むニーナにさらに一歩近づき、「失礼」と低く声をかけた。彼女が返事をする前に、ふわりとその身体を浮かせる。
「……っ」
 悲鳴が上がる前に、強引に彼女を胸元に抱き寄せた。カミュはニーナを抱え上げ、視線を自分の胸へと向けることで、強引に周囲の視線から引き離してやった。
 ニーナ自身も、さらにはグルニア兵までもが驚きに目を瞠る中、カミュはゆっくりとその歩を進める。
「無礼を許されよ、姫。まだ足元が危険なのでな。絨毯に埋もれた刃の欠片で怪我でもなさったら、私が気になって夜も眠れなくなる」
 そんなとってつけたような言い訳をわざと周囲に聞こえるように口にしながら、多くの視線をものともせず進んでいく。そしてカミュは、驚くほど軽いニーナを抱えながら、今後彼女の双肩に重苦しくのしかかってくるだろう祖国復興の責務に思いを馳せた。



 そして、ニーナは――悪意ある視線から遮ったカミュの優しさとぬくもりに跳ねる鼓動を抑えられず、現実味の薄い感覚から強引に引き戻され、軽いパニックに陥りながらも、この人は信用してもいいのかもしれない、と思い始めていた。