アカネイア・パレスの庭園は重苦しい城内の空気など素知らぬかのように、華やかな花が咲き誇り、静寂に沈んでいた。
かつては王族と賓客の目を楽しませ、軽やかな笑い声が響いていたその場所も、今はただ、グルニア王国騎士団の支配下にある。
ニーナ王女は、人払いを済ませた庭園の小道をゆっくりとした足取りで、ひとり歩いていた。明るい色合いの石畳に響く足音は控えめで、夕暮れの空の下、彼女の姿は一輪の白百合のように儚く映る。
西の空にゆっくりと傾く陽は尖塔の影を長く引き、庭園を隔てるように黒い線を刻んでいく。少しずつ伸びていく影が伸びていくのをニーナは眺めながら、静かにその時を待っていた。
規則正しい軍靴の響きが近づいてくる。ニーナは振り返らない。振り返れば、彼もまた視線を逸らすだろう。この場で言葉を交わすことは叶わない。目を合わせることさえ許されはしない。だからこそ、彼女はただ、地面に映る影を見つめ続ける。
――やがて陽はさらに傾き、彼の影が長く伸びた。その影はニーナの影に寄り添った。胸の奥が小さく高鳴り、そして一瞬――二つの影が重なり合う。彼の影が、そっと彼女を包み込んだ。
(この影のように、いつか……)
ニーナは胸の内で、誰にも言えない願いをそっと呟いた。
それが恋であることを、彼女自身もう気づいていた。けれど今はまだ、口に出すことはできない。ただ胸の奥でひっそりと、大切な宝のように育ててゆくしかなかった。
きゅう、と胸の奥が締めつけられる。その痛みに耐えて、遠ざかる軍靴の音に耳を傾ける。彼の声が聞こえたらいいのにと密かに願いながら、離れていく影を追った。
カミュ将軍は司令官としての職務の重責を担いながらも、日々の巡回を欠かさない。その経路には必ず庭園の外周が含まれていた。部下任せにしても良い巡回をあえて自ら行っているのは、軍務の一環に過ぎぬように見えて、実のところ、ニーナを目にする機会を得るためでもあった。
部下たちは上官の意を察してか、この時ばかりは距離を取る。その心遣いに感謝しつつも、彼とニーナの間には、埋めがたい隔たりとあまりに重い立場の壁が横たわっていた。
庭園の夕暮れに染まる花々に目を向ける小柄な背中は、頼りなげに咲く一輪の花のようで、強い風や雨に吹かれれば手折れてしまうようで、落ち着かない。尖塔の影が一瞬彼女を包み込む瞬間などは…彼女が暗闇に呑まれてしまうかとさえ錯覚する時がある。駆けつけ、その腕を引いてしまいたい。その衝動をカミュは何度も堪え続けてきた。
やがて、影がゆっくりと重なり合う。その一瞬が永遠のようにも思える。しかしカミュは立ち止まることなく、一歩、また一歩とその歩を進めた。ぷつりと途切れるように、重なる影が離れていく。ままならない現実を映しとったかのように、離れていく。苦悩がカミュの胸を締めつけた。
振り返りたい。――振り返れない。
儚げな姿を脳裏に描き、ニーナへの想いが募る。この感情が何を意味するのか、彼自身もうわかっていた。そして彼は彼女を護り続けたいと、誰よりも強く願っていた。
冷静沈着な顔の裏で、カミュ将軍の心の内には確かにニーナへの熱い感情が渦巻いている。それをただひた隠して、彼は彼女のため、彼女の未来のために、まっすぐ前を向き続けた。
影はやがて陽が沈んだ後の夜に溶け、二人の距離を隔てる現実が戻ってくる。けれども刹那の想いだけは心に残った。
そしていつの日か、影ではなく自らの手で寄り添える日が来たのなら――そんな淡い希望を、二人はそれぞれに抱きながら、静かに夜空を仰いだ。その深い闇の向こうに、いつか寄り添える未来をそっと描きながら。