朝焼けに染まる水平線は、燃えるような紅と金が溶け合って、きらめく波が穏やかに岸辺を行き来する。幾艘もの帆船が、波間に停泊している。やがてそれらの船は大海原へと繰り出し、異国の地へ、あるいは国内の港へ波に揺られて向かうだろう。その中で、一人の男が静かに、だが確かな目的を持って、バレンシア行きの船へと歩みを進めていた。
シリウスだった。彼は、いまだ仮面を外せないまま桟橋に立っていた。少なくともアカネイア大陸を離れるまでは、この素顔を隠し通すつもりだったからだ。
彼の心には今、怪我を負い、漂流の果ての地で出会った、もう一人の女性の面影があった。彼の胸に去来するのは、その人の元へ帰らねばならないという男としての誓いだった。彼はその女性のもとに戻って初めて、贖罪の旅が終わるのだと思っていた。
船へと続くタラップへと、歩を進める。しかし、その一歩は酷く重い。そして一歩踏みしめるごとに、彼の脳裏に思い描いていた女性の顔がぼやけていく。輪郭があいまいになり、色彩が失われ、幻のように霞んでいく。
(どうしてだ……)
彼の胸の奥がざわついた。なぜ、これほどまでに鮮明に思い描けていたはずの顔が、今、思い出せないのだろう。彼は、目を閉じ、強く記憶を辿ろうとした。だが、無理だった。幻影は、まるで水に溶ける絵の具のように、見る見るうちに消え去っていく。
その代わりに、彼の心の奥底から、まるで光が射し込むように、別の顔が浮かび上がってきた。それは、竜の祭壇で、彼を「カミュ」と呼んだ、あの憔悴しきったニーナの顔だった。涙に濡れた瞳、かすれた声、そして彼を呼ぶ響き。彼女の姿が、鮮やかに、まるでそこにいるかのように、彼の脳裏を占めていく。
シリウスは、はっと目を見開いた。タラップの上で、茫然と立ち尽くす。ざぁん、と耳に入る波音が、かき消されていく。
(馬鹿な…私は…何をしていたのだ…)
胸の鼓動が暴れ出し、鮮明に浮かぶニーナの姿に圧倒されていた。心の片隅に「待つ者」として置いていたはずの面影は、彼の真の心を覆い隠すための、偽りの仮面だったのだ。
彼が、本当に帰るべき場所は、あの幻影の元ではなかった。彼が、シリウスが心の底から求めていたのは、ニーナだったのだ。
「待たせていたのは、ニーナ、あなただったのか…!」
声にはならない独白が、彼の胸の奥で響いた。全身に、今まで感じたことのない、そして抗いようのない衝動が走る。それは後悔と、そして、燃え上がるような愛の再燃だった。
彼は、船から降りた。彼がバレンシア行きの船に乗ることは、もうなかった。彼の視線は遠く、アカネイアの方角へと向けられていた。彼の心は、ただ一人の女性…ニーナへと向かっていた。
彼は、自分自身の心の奥底にある抗いようのない真実を、ついに認めたのだ。今度こそ、彼は己が彼女を求めていたことを受け入れた。