過ぎし日の愛の挽歌 第二

 メディウス討伐後、野営地は勝利の余韻を色濃く残しながら、静かな夜を迎えていた。
 疲弊しきった者たちは泥のように眠り、そうでない者は警らのためそこここを見張っている。残党はいないだろうが、王族も多く所属する場では、当たり前の光景だった。ましてや、アカネイア大陸最大の国の王妃も今まさに、この場にいるのだからなおさらだ。
 かがり火が闇を照らす。そのあかりに照らされる、野営地の中で最も奥まった天幕の中で、司祭やシスターの看護の元、ニーナは簡素なベッドに横たわっていた。痩せ細り、憔悴しきっていた彼女の顔には、まだ生気は戻っていない。心労を重ね、心は傷つけられ、メディウスにとらわれている間に夫は死に、頼れる者をなくした彼女は、苦し気に眉を顰め、うなされている。癒えぬ心の傷は深く、引き裂かれているのを物語っているようだ。
 シリウスは彼女の天幕が見える場所で、静かに槍の手入れをしていた。しかし、その手は微かに震えている。意識は穂先を研ぐ目の前のきらめく刀身ではなく、天幕の奥へばかり向いている。
 彼女の事ばかりが脳裏を占め、彼女の声が耳の奥で幾度もこだましていた。きっとしばらくは残り続ける声音だった。
 だが、彼は間もなく、重い腰を上げようとしていた。この野営地を去ろうと決めていたのだ。
 先程、マルス王子がシリウスの元にやってきた。
「シリウス。ニーナ王妃は、あなたに会いたがっています。あなたが命を賭して救ってくれた礼を伝えたいと。顔を見せてやってはくれませんか?」
 若き王子の顔には、激戦を終えた安堵が浮かんではいたが、瞳には案じる色が濃く滲んでいる。その言葉にシリウスは、一度だけわずかに顔をあげた。仮面に覆い隠されない瞳が、マルスを捉える。
「……幻を見せたくはない」
 低く、押し殺したような声が、闇に溶けていく。マルスは彼の言葉の意味を測りかねた。幻、とは何を指すのか。だが、シリウスはそれ以上、何も語らなかった。
「彼女はまだ、疲れているのです。会う必要もないでしょう」
 冷たく突き放すような言葉は、シリウスの内なる葛藤の表れだった。彼はニーナを「守るために遠ざけた」過去を、今も引きずっていた。仮面をつけた自分は、もはや彼女の知る「カミュ」ではない。この姿で彼女の前に立つことは、さらなる苦痛を与えるだけだと信じていた。素顔を見せるのも同様だと思った。そして何より、彼自身が彼女に真実を語れない、臆病な自分を許すことができなかった。
 マルスは、彼の決意の固さにそれ以上口を挟まなかった。静かにその場を離れ、もの言いたげな様子をみせながらも、彼に背を向けた。シリウスは、マルスが去っていくのを無言で見送り、再び槍へと視線を落とす。煌めいた刃がなぜか、泣いているような気がした。


 夜の帳が深くなる。山岳地帯に霧や靄が薄く広がっていた。人々の視界を遮るその靄に紛れて、一騎の馬が静かに出立する。仮面をつけた男は、迷うことなく闇へと消えていく。
 それは、ニーナへの別れを告げる、無言の旅路のはじまりだった。
 彼の心には、ニーナの姿が焼きついたままだ。疲弊しきった弱々しい彼女の姿。そして自分を「カミュ」と呼んだ、あの切なくも愛おしい声。


 シリウス……否、「カミュ」は己の存在がこれ以上、誰かの悲劇や戦乱の火種とならないように、という強い思いを抱えていた。名を捨て、立場を捨て、故郷を捨てる。思い出も愛も、すべて置いていくつもりだった。そして、遠い異国の空の下にいるあの人の元へと、急いで戻るのだ。