竜の祭壇は、戦いの熱にまみれていた。地響きと咆哮はおどろおどろしく気の弱い者の精神を蝕み、戦場に慣れた者には緊張をもたらす。そこかしこに散らばる瓦礫や焦げついた壁は、激戦の痕跡を色濃く残し、後続の兵に苛烈さをまざまざと想像させた。
そのさらに奥で、今、一縷の希望の光がともされようとしていた。生贄とされ、魂を砕かれようとしていたシスターたちが、今まさに愛する者の呼びかけによって正気を取り戻していく。マリクの安堵した声、ミネルバの力強い言葉、ジュリアンの優しい眼差しが、メディウスに取り込まれようとしていた魂を救い上げていく。
その光景の中で、仮面で素顔を覆い隠した騎士シリウスは、静かに、だが確かに動揺していた。彼は今、ひどく瘦せ細り、憔悴しきった女性を前にして立ち竦んでいた。
彼女こそ、アカネイアの白い薔薇と呼ばれた、麗しき王女ニーナ…否、王妃ニーナだった。
うつろな瞳は、何も映してはいない。虚空を見つめ、ぶつぶつとメディウスを守るような文言を繰り返すだけだ。彼の記憶の奥底で眠っていた姿とは、明らかにかけ離れた姿だった。
しかし、動揺は瞬く間に焦燥へと切り替わる。この女性を一刻も早く正気に戻し、この場を離れなければ、彼女の命はない。
焦りに背を押されて、シリウスは彼女へと呼びかける。努めて冷静さを装っていたが、口から零れる声には微かな震えが宿っていた。
その声に反応したのか、ぴくりともしなかったニーナがゆっくりと視線をあげ、うつろな瞳で、途方に暮れ、震える声で、確かに言った。
「ああ…私は罪を犯しました。私が愚かゆえ…」
それは深い後悔に満ちていた。自分自身の愚かさや過ちがすべての原因だと己を責め、苦しんでいた。
ただ自らを責めるニーナの言葉に、シリウスの胸が絞めつけられる。かつて、忠義と愛の狭間で彼自身もまた、愛する人を苦しめてしまった。その贖罪の念が、仮面の奥で燃え盛る。
「もう、良いのです。もうそれ以上苦しむことはない。あなたは悪い夢を見ていたのです…」
優しく諭すように、言い含める。彼女の夫はすでに苦しみから解放されていた。そして、彼女を最後まで愛し、自らが為した罪を詫びていた。だからもう良いのだと、これまでの事は悪い夢なのだと、苦しむ心を誘導する。
そんな言葉がようやくニーナの心に届いたのか……彼女のうつろな瞳に、ゆっくりと、微かに光が戻り始めた。
ゆっくりと長い睫毛をたたえた瞼が震え、見慣れぬ男の姿をはっきりと捉えだす。しかし、まだその光は小さく、気を抜けば再びメディウスにとらわれてしまいそうなほどか細いものだった。そうさせまいと、シリウスはニーナの顔をまっすぐに見つめる。
「あなたは?」
不思議そうな問いかけは、かつて聞いた無邪気な声によく似ていた。その音にシリウスの心が大きく揺さぶられる。真実を告げてしまいたい衝動と、告げることのできない現実が、彼の心の内で激しくぶつかりあう。しかし、彼は仮面を崩さなかった。ただ、こたえる代わりに、光を宿しはじめたニーナへ、叱咤の激励をする。
「ニーナ姫! 負けてはいけない。あなたはそれほど弱い人ではないはずだ!」
その言葉に、ニーナの表情が劇的に変わった。弱い光が輝きを増し、瞳に生気が宿る。そして、シリウスの仮面の奥に隠された、あまりにもよく知る面影を、彼女は即座に見つけてしまった。
カミュ…!
その唇から紡がれる名前に、シリウスの全身に電流が走った。心臓が締めつけられるような痛みを覚えながらも、表情を引き締める。その間にもニーナは、抑えきれないほどの驚きと喜び、安堵と悲しみが入り混じる声と表情でシリウスを見つめてくる。
その瞳を、まっすぐ見ることなどできなかった。
目をそらし、ニーナの言葉を機械的に否定し、あなたの知る者ではないと装う。
冷徹な答えに、歓喜の色を宿していた瞳が一瞬にして絶望の色に染まる。
そんなはずない、となおも期待を滲ませる問いに、シリウスは言葉を探したが、彼女を納得させる言葉など今は見つかるはずもない。メディウスは今でこそ少しおとなしくしているが、いつまた暴れだすかわからない、非常に危険な状況なのだ。シスターをメディウスから引きはがし、遠ざけ、一刻も早く討伐しなければならない瀬戸際だった。
そこで、かろうじて出た言葉は、どうにも納得できかねるものでしかない。
「落ち着いて下さい。あなたは疲れているのです」
シリウスは、彼女の目をまっすぐに見ることができなかった。疲労を理由に、彼女を遠ざけようとする自分に、彼は深く苦しんだ。
ニーナの背を押し、支えながら急いでその場を離れる。遅れていたのはシリウスとニーナのみで、他のシスターたちはすでに距離を取り、マルス王子たちの元に送り届けられ、手当を受けていた。その様子に急かされながら、ただニーナを無事な場所へ送り届けることのみに意識を集中しようとしたのに、
「あなたは…あなたはどこへ行くのですか?」
ニーナの問いに、言葉を詰まらせることしかできなかった。彼の心は、彼女と共に留まることを強く願っていた。しかし、過去の罪と、騎士としての矜持が、そして他の面影が、彼を縛り付けている。
「私は国へ帰らねばならぬ。私には…待っている者がいる…」
言葉を吐き出すたび、シリウスの心は深く抉られた。そして、ニーナの顔から、微かな希望の色が消えた。
その顔を、シリウスは見れなかった。見る勇気がなかった。ただ、仲間たちに預け、去っていく彼女の後ろ姿だけを、瞳が追いかける。彼女の苦痛が、深く身に、心に、魂に刻み込まれるかのようだった。だが、真実を語る必要はない。彼は自らの存在がこれ以上彼女を苦しめる原因となるのを恐れた。
過去を捨て、名前を捨てた「シリウス」は、間もなく役目を終えようとしているのだ。