過ぎし日の愛の挽歌 終

 カミュは、ニーナの冷たくなった手に己の手を重ね、ただ静かにそこに座り込んでいた。時間という概念が、彼の中から消え去ったかのように、ただ傍にいた。彼の頬を、すうっと伝い落ちる、弱々しい涙だけが、静まり返った室内で唯一動いているものだった。
 どれほどの時間が経っただろうか。カミュはふと、ベッドの傍に置かれた小さな木製の箱に気づいた。その箱の中には、一冊の古びた革表紙の日記が納められていた。ニーナが、この家で密かに綴っていたものだろうか。
 のろのろと取り出した日記を開く。そこには、覚えのあるニーナの筆跡で、最期の想いが綴られていた。何日かかけて書いたのだろうか、最初は勢いのあった筆致が、ページが進むごとに弱くなっている。

『……ハーディン、あなたの愛に気づけなかったのは、愚かなわたくしの罪です。どうか、わたくしを許さないでください。
 あなたの哀しみと苦しみに気づけず、ごめんなさい、ごめんなさい…
 それでも、わたくしは――』

『カミュ、あなたの声が聞こえてきたあの日、わたくしはあなたを再び苦しませてしまいました。あなたが生きていた嬉しさに舞い上がり、あなたの名前を呼んでしまったこと、深く後悔しています。わたくしの愚かさが、あなたをまた過去の鎖に縛り付けてしまった。わたくしは、あなたに対してなんてことを…』

『あなたの姿を目にしたあの日、わたくしは愚かにも、カミュ…あなたとまた一緒にいられるのではないかと、浅ましい思いを胸に抱いてしまいました。けれど、あなたはカミュではないと…言った。待っている人がいる、とも。あなたを縛り付けていたのは、わたくし自身だったのですね』

『カミュ…あなたの「すまぬ」という言葉に込められた悲しみが、今なら分かります。あなたのこれからの生が、わたくしの愛の鎖から解き放たれますように』

『わたくしは、もう、誰の重荷にもなりたくありません。
ただ、静かに、この生を終えたいと願うばかりです』

 日記の最後のページに、綴られた謝罪は、途切れていた。そして数行空いた後、震える筆跡でこう記されていた。

『カミュ
……あなたを
愛していました
声がきけて、幸せでした
ありがとう……』

 日記の最後のページは、涙の跡で滲んでいた。きっと心も体も辛かったのだろう、結びに向かうにつれ文字は流麗さを欠いて、ときどき掠れ、震えてさえいた。美しい文字さえも、無残に失われていたのだ。
 カミュの胸に、激しい痛みが走った。彼女は、最期の瞬間まで、自分を責め、彼の幸せを願っていたのだ。彼の自己犠牲の精神が、結果として彼女を絶望へと追いやったのだと、彼は悟った。彼の愛は、彼女を守るどころか、彼女の死を早めたのかもしれない。
 日記を強く掴んで、唇を噛みしめる。鉄さびの味がしたが、そんなことはどうだってよかった。今そこにあるのは、絶望と、深い後悔だけだった。
「ニーナ……、あなたを……私は……」
 彼の声は、途中で途切れた。言葉にならない悲しみが、喉元で堰き止められる。愛を失った男。彼は、残された人生を、この絶望の中でどう生きれば良いのだろうか。彼にとって、ニーナを失った世界は、色を失い、音を失った、虚無そのものだった。
 カミュがあれほどこだわっていた騎士としての誇りも、忠義も、もはや意味をなさなかった。彼に残されたのは、愛する者を救えなかったという、ただそれだけの、深い後悔と喪失感だけだった。彼の旅は、真の愛を見つける旅ではなく、愛を失ったことを知る旅となってしまった。この小さな家で、彼はただ一人、崩れ落ちる心を抱え、途方もない闇の中に取り残され、永久にもがくしかないのだ。