カミュ――いや、シリウスは、待つことに耐え切れず、無礼だとわかっていながらもゆっくりと扉を開いた。ノブを掴む手が震えている。わずかな躊躇が生じるが、それを振り払った。軋む音とともに陽光が室内に差し込んでいく。その光を背に、一歩、また一歩と足を踏み入れる。わずかな草花の匂いが鼻先をかすめ、数年前、あの庭園でともに楽しんだささやかなひと時の記憶を再び揺さぶり起こす。
外の明るさと室内の薄暗さに目が慣れるまで、ほんの一時かかった。瞬きを繰り返して、切実な思いで目の前を見る。
狭く慎ましやかな室内に、食卓を兼ねたテーブルが置いてあった。そこに座っていた影が、動く。人影だ。誰だ、とカミュが思うより早く、彼の瞳はその姿を確かに捉えた。
物書きをしていたのだろうか、それに夢中になっていたのだろう、来訪者にようやく気づいた女性が、顔を上げる。その瞬間、まるで――時間が止まったかのような錯覚を覚えた。
ニーナ――
逆光に身を置くシリウスの姿に、彼女は既視感を覚えたようだった。戸惑いの混じった眼差しが彼女の表情にも現れている。その姿に、シリウスの胸が締めつけられた。心臓が痛む。
「……?」
彼女の表情に、微かな疑問の色が浮かんだ。やがてそれは、迷いと警戒、そして動揺へと変化する。彼女が手にしていたペンが落ち、ころころとテーブルの上を転がって、床にかたんと落ちた。床を転がった乾いた音が、止まっていた時を動かす、確かな合図となった。
「どうして……」
掠れた声がニーナの唇から零れ落ちる。がたんと立ち上がったせいで、椅子が不快な音をたてたが、構ってなどいられなかった。シリウスは一歩、足を踏み出す。重かった身体が、前に進む。暗がりに目が慣れると、ニーナの少しやつれた姿がはっきりと見えた。痩せていた。だが、その瞳に宿る悲しみと聡明さは消えていなかった。それがシリウスを安堵させ、同時に深い罪悪感を掻き立てる。
目が合う。視線が交わる。言葉は要らなかった。
時間も記憶も、すべてが霧散し、ただ彼自身とニーナ、二人だけの世界がそこにはあった。
ニーナだ。そこにいるのは、シリウスの求め続けていた女性だった。頬を一筋の涙が伝う。仮面の下で、封じてきた感情が決壊する。胸の奥に押し込めていた想いが、とうとう堰を切ったように溢れ出すのを感じた。
「ニーナ……ここに、いたのか…」
ようやく紡げた言葉は、震えていた。涙のせいでくぐもってさえいた。声が出たことにシリウスは自分自身でも驚いた。ただ、その名前を呼ぶこと――彼女に会うこと。それだけが、彼を突き動かしていた理由だった。
シリウスの目に、ニーナの唇が震えるのが映った。愛らしい唇で名前を呼ばれるのが嬉しかったというのに、彼女が次に放った言葉は、シリウスの胸を鋭い針で突き刺したかのような痛みをもたらす。
「……シリウス、でしたね。国に帰られたと聞き及んでいましたが、どうされたのです?」
その響きが、言葉が、彼女の心の距離を知らしめる。シリウス自身が選んだ道が、放った言葉が、彼女の心にどれほどの影を落としたのか――今更ながら、思い知らされた。責める声ではない事が、余計にその事実に拍車をかける。
「どうして……こちらに?」
穏やかな口調ではあった。だが、深く沈んだ痛みと混乱が確かに滲んでいた。彼女に、こんな声を出させてしまった痛みに、息が詰まりそうだった。
問いに答えなければ。そう思っても、何をどう言えばいいのかわからない。ひた、と見据えられた瞳は、シリウスをまっすぐ捉えている。その青い色がうっすらと膜を張っているように見えたのは、幻などではないはずだ。
意を決したシリウスは、仮面に手をかけた。ひんやりとした感触――それは、友から借りたものだった。
素性を隠し、心を覆い、祖国に置いてきた数々の未練を断ち切るための仮面。だが、もう……必要なかった。手放すことなど、そもそもが無理な話だったのだ。最初から、不可能だった。
その手から仮面が滑り落ちる。カラン、と乾いた音を立てて床に転がり落ちたそれは、カタカタと小さく揺れた。その震えは、過去を取り戻す音であり、選び取るつもりだった"別の生き方"との、静かな決別の響きだった。
「……嘘をついた。あれは、あなたを、過去の幻影から解き放つためだった」
言葉にするのが、これほど苦しいとは思わなかった。シリウスは、己が選んだはずの道がどれほど苦痛をもたらすのか、改めてまざまざと思い知らされる。
「この大陸から離れるつもりだった。誰にも知られず、遠い異国の地で、新たな人生を歩むつもりだった。……だが、できなかった」
ニーナの瞳をまっすぐに見据える。彼女を見つめる時が長引けば長引くほど、シリウスの中の"偽りの自分"が崩れていく。必死に覆い隠した壁の中から姿を現したのは、ただ、"カミュ"という一人の男の、生々しくひたむきな感情だけだった。
ニーナは返す言葉もないのか、あるいは返答をしあぐねているのか、薄く開いた唇を一、二度開閉させたきり、何も言えないでいる。それでもよかった。耳を塞ぎ、拒絶されるよりはずっとましだった。
「君の存在が、私のすべてを照らしていた。遠くにいても、君の存在が心の片隅を占めていた。君の声、姿、交わした言葉、……そして、君そのものが――それだけが、私の中の真実だった。いまさら気づいてももう遅いと、君は思うだろうか」
拳を握る。その手は、もう武器を握るためだけにあるのではなかった。彼女を、愛する女性を二度と手放さないために、使いたかった。
「そして、あなたが姿を消したと知ったとき……私は抗えなかった。すべてを捨ててでも、あなたに会いたいと、衝動に突き動かされた」
呼吸が苦しい。胸も酷く軋む。言葉のひとつひとつが、傷口を開くかのように痛む。だが、伝えずにはいられなかった。切実だった。
「ニーナ。君を探してきた。それだけが、私の理由だった。私の心はすべて……君に、向かっていたんだ」
沈黙の中で、ニーナの瞳が潤んだ。盛り上がった涙が美しい眦を濡らし、白い頬に零れ落ちる。その涙が、彼の罪を赦す印のようにも見えた。
細い身体が震えている。今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られるが、シリウスは動けなかった。その涙の理由が、彼自身が考えているそれとは違ったらと思えばこそ、身じろぎすら出来ない。歴戦の輝かしい戦歴を持っていようとも、恋に関しては素人同然だった。
はらはらとニーナの頬をいくつもの涙が伝い落ちる。そして彼女は、その唇で、あの懐かしい響きで、彼を呼んだ。
「…カミュ……!」
その名前を呼ばれた瞬間、彼は完全に"シリウス"という名前と、そして歩むはずだった新たな人生を捨て去った。故郷に置き去りにし、持っていくのを諦めた本当の彼自身が、彼女の声によって取り戻された。
カミュは腕を広げた。その中に、細い身体が飛び込んでくる。躊躇いなく、しかししっかりとニーナを抱きしめた。小さな手がおずおずとカミュの背中にまわされる。その温もりはどんな戦の勝利にも勝る確信をもたらした。ようやくあるべき場所、帰るべき場所を見つけたのだと。
彼女の指が、震えながらも優しく背を撫でる。カミュはそっと彼女の涙を拭い、視線を合わせた。その瞳に、自分の姿が映っている。それだけで、すべてが報われた気がした。そっと唇を近づける――
二人の距離が、すべてを物語っていた。言葉などいらない。いま、この瞬間にすべての答えがあった。