ぱちぱちと爆ぜる薪の燃焼音が、暖炉の方から聞こえてくる。
外は陽がすでに落ちて久しく、やや厚めのガラスの向こうにはすでに星が瞬いて、遠く山の隙間にマッサーとセクンダがその顔を覗かせていた。
室内は静かだ。ときおりぱらりと紙をめくる音が微かに響く音が、薪の音に混じる程度で、しんと静まり返っている。
天井近くからぶら下がっているヤギの角を加工した燭台はゆらりとその炎を揺らめかせ、薄暗い部屋を照らしている。比較的その明かりが届きやすい箇所に据えた椅子に腰を下ろして本を読んでいるのは、ミラークだ。特に読書に支障はないのだが、口うるさい同居人が目が悪くなるかもしれないから、としつこく言い募るから、今は普段身に着けている仮面はベッドのそばのサイドテーブルの上に置かれている。
まあ、確かに仮面がなければ視野は広がるのだが、長い――とても長い間、それと共にあったせいか、ときおり仮面の位置を調整しようとする癖が出て、指先が素肌に触れるたび、我に返るようなことが続いていた。
しかし今夜は幸いなことに、その癖はまだ出ていない。
そのため、少し厚めの書物を読む速度は普段より早く、巻末まであと少しというところまで来ていた。
ミラークにとって読書は趣味という部分もあるが、リラクゼーションの一環でもあった。
これまで多くの本を読み、膨大な知識を得てはきたが、それとは関係なしに文字を追うと落ち着いてくる。煩わしく脳裏を騒がせる情報が遮断され、頭がすっきりするのだ。文字を追うリズムと呼吸が一体となり、興奮がおさまり鎮静化していく。リラックスするにはもってこいの方法だった。
冒険譚などを読めばそれなりに胸は弾むが、そうではない書物も多い。そういったものに目を通して、心身を落ち着けてから横たわるのが日課であり、同居人の仕事に同行していない日常での安らかなひとときだった。
再びミラークはページを繰る。残りページ数はあとわずかだ。ざわついていた感情は穏やかに凪ぎ、睡魔に似たものが緩やかにミラークの身体に纏わりつき始める。
今夜はよく眠れそうだなと、脳裏の片隅でふわりと考えたが、静まり返った室内に不意にかたりと物音がすれば、意識はすぐさま書物からそちらの方へと移り変わった。
物音は隣の部屋からではなく、この部屋の扉の方からだ。すでに時刻は深夜といえるような頃合いで、いつもは早寝の同居人はベッドの住人と化しているはず。だが、探った隣室に気配はない。
「………ああ」
思い至って、ミラークは仄かに口許を緩めた。
そういえば、読書に夢中になって、顔を出していなかった。
毎晩、忘れていなければ互いに寝る頃には顔を合わせる。単なる挨拶程度ではあるが、声を掛けあうのはミラークにとってもう珍しいものではなくなっていた。
どうするかと思案したが、繰るページは今いいところだ。あと少し、ほんのあと僅かな時間が許されるなら、あっという間に完読出来てしまう量でしかない。その僅かな時間で一気に読み進めてしまおうと、その誘惑には勝てずに再び視線を落としたミラークの耳に、今度は控えめにドアが軋む音がする。
キィ、と微かな物音を立てて人ひとりが滑り込める程度に開いたドアから、細い人影が入り込んできた。
――深夜に男の寝室に侵入するのは、褒められたことではないのだが。
文字を追いつつそう思いはしたが、口を噤んでいると、そうっと足音を忍ばせて近づいてくる気配がする。
ぱらり。
最後のページを繰る音と、人影がミラークの背後に立ったのはほぼ同時だった。
そして、
「きゃあ!」
小さな悲鳴と共に、ばさりと書物が閉ざされる音が同時に響いた。
ハードカバーの本が、押さえる手を失って閉じたのを視界の片隅に捉えつつ、ミラークは膝の上に乗せられて目を白黒させている同居人に笑いかけた。
「どうした、ドラゴンボーン。こんな夜更けに。……私が本を読んでばかりで、寂しかったのか?」
自分よりも二回りは小柄な同居人は、横向きにミラークの膝に座らされて、その顔を背けることはかなわなかったようだ。ミラークの言葉と行動にさっとその頬に朱を這わせ、淡い色の唇をもごもごと開閉させて黙り込んでしまう。
けれど何よりも素直な指先は、きゅ、とミラークのローブを摘まんで、羞恥からか俯けた頭を覆う髪の隙間から見える耳はほんのりと色づいていた。
可愛いやつだ、と喉を鳴らして、ミラークはその細い身体を抱き寄せた。膝の上のささやかで快い重みとぬくもりが、読書の直後の穏やかな感情をわずかに乱すが、それさえも今は快い。
こんな真似を自分がするとは思わなかったと、何処か他人事のように考えながら、ミラークは控えめに縋りつく手を外させてその指先に唇を落とす。
あわあわと慌てて恥じらう様に笑いながら、頬に、鼻先に、目元にと唇を寄せて、最後に物言いたげな唇を塞いだ。
「さあ、もう寝るぞ。明日も早いんだろう。……そんな顔をするな、喰ってしまうぞ」
目元を潤ませてそろりと見上げられると、流石に理性を総動員させざるを得ない。からかうようにそう囁けば、耐性がない同居人は顔を赤くして、慌てたように膝から降りてしまった。
物寂しくなってしまったのを誤魔化すように立ち上がり、隣室まで送り届けてやる。ほんの数メートルでも、何だか離れがたい。
そんな感情に振りまわされつつ、ミラークはいつものように、慣れたそれを口にした。
「お休み、ドラゴンボーン。いい夢を」
「……おやすみなさい、ミラーク」
耳に心地良い返事を聞いて、扉を閉ざすミラークの胸には、読書では得られない充足と、別の意味で乱された感情が渦巻いてはいたが、今夜の眠りも心地いいものになりそうな予感は変わらずで――――
ぱちりと爆ぜる音が、それを後押しするように静かな室内に響いていた。