このゲームを始めてプレイしたのは、SFCの紋章の謎でした。その当時の私はあまり難しいことは考えておらず、ビジュアルの格好良さとキャラクターの強さに心惹かれ、当時はオグマやナバールをはじめとした傭兵たち、敵と味方に分かれてしまったマケドニアの兄妹たちに気を取られていて、このゲームが内包する深い意味を考えず遊んでいた記憶があります。
やがて長い時を経て、とある考察動画をきっかけにカミュとニーナという二人のキャラクターにようやく目が向き、その運命のあまりの輝きと悲劇性、愛と悲しみに茫然と立ち尽くしました。遠い昔、銀英伝の言葉を借りるなら想像の翼を羽ばたかせていた相手は、魅力溢れる傭兵たちでもミシェイルとミネルバ兄妹でもなくなり、このどうしようもない運命に引き裂かれた二人の恋人同士へとシフトしていったのです。
私の想像の翼は、いくつも羽ばたきました。明るい未来を彼らに与えようと、必死でした。けれど、どれほど愛にあふれた物語に仕上げようと、絶望に慟哭する物語を与えようと、満たされはせず、代わりに嘆きと苦痛と虚無感、苦悩が私を襲いました。どうしたら彼ら二人を、幸せにできるのだろうと必死で考えました。
私が単純であったなら、「私のカミュニナはこれでいい!」で終えられたと思います。しかし、私は公式の結末を知っており、彼らがどうなるのかも知っており、無力感は強まる一方で、ある種の憎しみさえ覚えていたのです。
けれど、だからと言って公式を完全に否定したいわけじゃない。彼らキャラクターたちがターニングポイントで選んだ道を完全否定したいわけではない(もちろん否定したくはあります)。それでも、その道を肯定して、送り出したい気持ちも確かにあったのです。
矛盾は私の中に忍び寄り、心が引き裂かれるようでした。泣きながらどうして、と考えた日もありました。
そんなとき、私の脳裏にある意味天啓のように降りてきたのが、「ドラゴンブレイク」でした。これは、ファイアーエムブレムの世界観とは関係ない、海外のゲームの中の設定です。この設定をクロスオーバーさせるというよりは、この概念が「私の創作するカミュとニーナ」の物語に必要だったのです。
ドラゴンブレイクとは、時間が壊れて矛盾した出来事がすべて同時に“起こったこと”として存在する、という設定です。私が求めていたのは、まさにこの考え方でした。つまり、公式の物語で示されたターニングポイントでの出来事は「事実として発生している」と認めつつも、同時に、そのすぐ隣で彼らが異なる選択をした「別の可能性」もまた、等しく「現実」として存在している。この多層的な考えが、私の心の中に存在する彼らの物語を救い、矛盾を和らげてくれたのです。
カミュとニーナが幸せである未来、離れ離れになった事実、ニーナの説得に応じてくれるカミュ、やはり忠義を捨てられない騎士としての選択…全部が存在する。ありのままに、全部起き、並列して存在している。これこそが私の救いとなり、長い迷路に迷い込んだ私への道しるべとなったのです。
だから、あなたが読んで「これが好きだな」と感じた物語があったなら、それがあなたにとっても優しく寄り添うものになってくれたら、とても嬉しいです。