山頂の神殿に置いてきたビルドの表情がわからなかったわけじゃない。
ルルとともに駆けだす寸前に、ちらりと見えたその表情が、胸を締め付けなかったわけではなかった。
それでも、それでもだ。
長らく勝手にビルドについてまわったのだ。オレの身勝手で、ビルドの選択肢を狭めてきたのは確かだ。
だからこそ一度オレ自身の意思でビルドのパーティーから外れ、彼自身の選択肢を増やしてやろうとそう思った。
今やからっぽ島にはオレだけでなく、ムーンブルクの戦乱を勝ち抜いてきた歴戦の兵士たちがいる。腕は確かで信頼出来る彼らの手を借りるのもいいだろうと、そう思いもした。
面白くない感情はもちろんある。ビルドを守ってやるのはオレ一人で十分事足りると確信もしている。
しかし、そうじゃない。それではいけない。わかってる。
ようやく悪いことが全部終わったんだ。
破壊神、ハーゴン教、教団のモンスターの襲撃……手を焼く雑事がすべてなくなったわけではなくとも、ずいぶん楽にはなってきている。オレの手を必要としなくても大丈夫なんだ。
溜息をひとつ零して、オレは久しぶりに戻ってきたからっぽ島をのんびり巡ることにした。その間に、ビルドは他の誰かと……
ちくりと胸が痛んだことには目を瞑り、一人でくさくさしている間にみんなの手で開拓された様々なものを眺め歩く。記憶にあるものと比べても、ずいぶんと様変わりしたと感心する。
オレがいなくても、ビルドはコツコツと建築を進め、開拓し、島の仲間たちは様々な生産物を植え育て、変わらぬ毎日を過ごしていたらしい。
そんな日々を過ごしてなお、オレを案じてくれたルルや島の仲間たち、そして危険を顧みずに約束を守って破壊天体にまで来てくれたビルドには頭が上がらない。
感謝の念と戻ってこれた嬉しさに、オレの胸の大半が占められていた。同時にずっとこのからっぽ島でみんなとともにありたいとも切に思う。
と同時に、やはり思考の半分はビルドのことで占められていた。
今頃ビルドは何をしているだろうか。
神殿から走り去る寸前、茫然とした表情を浮かべていたビルド。その表情から、詳細な感情まで読み取れたわけじゃない。ただ、何となく。思いがけないオレからの申し出に、思考が停止していたような、あるいはショックを受けていたような。そんな印象を受けた。
できれば…いや、この考えはいけない。
首を振り、いつの間にか止めていた歩を進める。
今すぐビルドの元に戻りたくてうずうずしたが、それではせっかくパーティーを外れた意味がない。
いつまでもビルドにくっついてまわるわけにはいかないんだ。
……心の奥底でそれを拒絶したくて仕方なくても。
再び溜息を零す。今度は深く長かった。
今のところ、名簿の変更をされた様子はない。誰を連れ歩くか悩んでいるのか、はたまた今は特に出かける予定もないから放っておいているのか。
寂しくは感じたが、ビルド自身の意思で呼んでくれるまでは、適当に過ごしておこう。そう心を決めて、オレは最後に見たビルドの表情を忘れようとした。
がたん、と物音が響きわたる。
何事かと顔を上げた。
こんな夜分遅くに誰だと訝る。しかし、馴染んだ気配を感じて警戒は即座に緩んだ。
この気配を感じるのは何日ぶりだろうか。知らず口元に笑みが浮かぶのを止められない。が、こんな緩んだ顔を見せるのもどうかと思って、表情を引き締める。そして物音がした階下に降りた。
薄暗い玄関に明かりをともし、ぐるりと室内を見る。すぐにオレの瞳はただひとりの姿を捉えた。
「ビルド」
一階に作られたくつろぎのスペースに、夜分にも関わらず来訪してきたビルドが腰を下ろしていた。少し疲れた様子で、ぐったりと背もたれに寄りかかっている。
そんな姿が珍しく、かけた声音は少し小さい。それでも聞こえたのか、すい、とビルドの瞳がオレを認めた。途端、ぐにゃりとそれが歪む。
吃驚した。胸がぎゅっと鷲掴まれたような感覚に陥り、どきっとする。慌てて近寄り、どうした、と問いかければ、ビルドはただ首を緩く振って、何でもないと答える。
何でもないことないだろう!?
オレの目の前で、ビルドの瞳から次々と雫が溢れだす。それは幾筋もビルドの白い頬を伝って、ぽたぽたと落ちていった。
「おい、ビルド…」
それを止めたくて、思わず濡れた頬に手を添える。指先であふれる雫を払うが、次々と零れるからちっとも追いつかなかった。
どうしたっていうんだ。
けれど、ビルドはその薄い唇を戦慄かせるだけで、何ひとつ言葉は発しなかった。
「どうしたんだ、ビルド。泣くな」
喧嘩をしたときや感情が高ぶりすぎたときにうっすら眦や瞳を潤ませることはあったが、ここまでぼろ泣きする姿は初めて見る。どうしたらいいかわからなくて、何度も涙を拭ってやるが、それを上まわる勢いで溢れてくる。
ものも言わず、身動きひとつせず、ただ落涙させるだけのビルドが、妙に小さく儚く感じた。破壊天体でともに戦ったときはとても頼もしく、力強く感じたっていうのに、その片鱗すらない。
初めて出会ったときのような頼りなさとは違う儚さに、ぎゅう、と胸が締め付けられた。
何かあったのか。
オレがいない間に、悲しいことでもあったのか。
それとも、つらい目にでもあったのか?
様々な憶測が脳裏を巡る。いつも笑っている相棒が、こんな。
慰めるにもどうしたらわからず、ただオレはひたすら涙を拭いてやることしかできない。
そんなオレに、ビルドが微かに笑った。口許を無理矢理笑みの形にして、大丈夫だよと言わんばかりに。涙は全然止まっていないのに、無理に笑ったんだ。
――たまらなかった。
ビルドを虐める奴も、泣かせる奴も、全部ギタギタにしてやる。
ぎり、と奥歯を噛みしめた。
どいつだ、ビルド。オマエを泣かせる不届きな奴は。オレの知らない奴か。知っている奴か。それとも。
そんな思考に囚われるオレに、すん、と鼻を鳴らしたビルドがのろのろと立ち上がる。
「ごめんね、シドー。いきなり来ちゃって。…もう大丈夫だから」
何が大丈夫なんだ?
まだ涙は止まっていないくせに。今にもくずおれてしまいそうなくらいに儚げなのに。
「僕、まだ作業が残ってるから行くよ。じゃあね、おやすみ」
何も言えないでいるオレの前を、ビルドがふらりと横切る。その背は頼りなく細く、ドアを開けた瞬間夜闇に紛れて掻き消えてしまいそうで。思わずオレは、ビルドの腕を掴んでいた。
「……行くな」
一人にできないと思った。そして、出ていかせるわけにはいかないとも。
何より、こんな状態のビルドを送り出せるほど、オレは冷淡じゃない。
「シドー、やだな、大丈夫だって。だから離し……」
みなまでは言わせなかった。
掴んだ腕を引き、強引に抱き寄せる。ビルドの手から離れたドアがばたんと音を立てて閉じたのが視界の隅で見えたが、そんなことはどうでもよかった。
驚いたビルドが、腕の中で固まっている。それもそうだ、ちょっと強引過ぎた。だが、離す気は毛頭ない。
数秒置いて、我に返ったらしいビルドが腕の中でもがいた。けど、ビルドの腕力なんかオレにしてみればたかが知れてる。簡単に抑え込めた。
「離してよ、シドー!」
囲われた腕の中で必死に訴えるのが聞こえた。あの涙を見る前のオレだったら、あっさりとこの力を抜いたかもしれない。だが今のオレはそうしない。出来るはずもない。
無理矢理泣き顔を笑わせて、今にも消え入りそうで、そんな奴を放っておけるか。それがビルドであればなおさらだ。
それに。
――それに、何でわざわざオレの家に来た? 作業が残っているくせに。オレが寝ているかもしれない時間だっていうのに。こんな夜更けに。
オレがオマエの気配に気づかないはずもないのに。
こんな泣き顔をオレにさらしておいて、一人に出来るか。送り出せるか。
「いいから、ここにいろ」
耳元で囁いて、落ち着かせるように背を撫でる。びくりと腕の中の身体が震えたが、構わずに擦り続けると強張っていた身体から力が抜けていくのがわかった。
少しは落ち着いてきたのを認めると、室内に促す。さっきまで座っていた場所に改めて腰を下ろさせ、その隣に当然のように座る。もう出ていく気はないのか、なすがままのビルドの頭を引き寄せ、肩を貸した。まだ濡れ続けている頬の涙が服に触れて、徐々にそこが湿っていくのがわかったが、そんなことはどうでもよかった。
オレの肩に頭を預けたまま身じろがないのを確かめて、抱き寄せた腕で髪を撫でる。黙ってそれを繰り返し、繰り返し……時間はただ過ぎていく。
ふと、肩にかかる重みが増えた気がして、ビルドの方を確かめる。泣き疲れたのか、眦を赤くして眠りに落ちていた。重くなったのは身体から力が抜けたせいだ。そっと眦に手をやって、起きている間ちっとも止まらなかった涙の名残りを拭った。落涙の痕跡はくっきりと頬に残り、目元は少し腫れぼったい。冷やすものを持ってきてやらないとな、とぼんやり考えながら、起こさないように気を払いつつビルドを抱えあげる。
この家を作ってもらう際、絶対に泊まりにこれるようにビルドの部屋も作っておけ、と言って作らせた部屋にビルドを伴う。その部屋を使った回数は数えきれる程度しかないが、オレがいない間にきちんと整えていてくれていたらしい室内はきれいだった。
室内へのドアを器用に開け、窓際近くに据えられているベッドにビルドを横たえる。ようやく乾いてきた涙の痕が痛々しいが、寝息は比較的穏やかだ。そのことにほっとしながら、そっと頬を撫でる。
明日ビルドが目覚めたら、誰に泣かされたのか絶対聞き出してやると決意しつつ、床にごろりと横になる。同じ家の中とはいえ、やっぱり放っておけなかった。
隣にビルドの気配を感じる。そのことが無性に胸に来る。
不思議な感覚だと思いながら、少しでも眠ろうと目を瞑った。
頬に何か触れた。
その感触に気づいた瞬間、即座にオレはその何かを鷲掴んでいた。
深く寝入っていたはずの意識は瞬時に覚醒に至り、オレは手にしたものを見て唖然としてしまう。
オレの頬に触れていたのは、ビルドの手だった。
「……ビルド?」
ベッドの上に寝かせていたはずのビルドが、床に座り込んでいる。堂々と床で大の字になっていたオレのすぐ傍だ。窓の外は少し白んできてはいるが、寝始めてそう経っていない。
ビルドの手を離して半身を起こす。オレ自身は平気とはいえ、ビルドには冷たい床だ。せめてベッドに座らせようと算段するオレの横で、泣き止んでいたはずのビルドの頬に涙が伝う。
ぎょっとすると同時に、どうしたんだと焦る。
あからさまに慌てるオレに、ビルドが潤んだ瞳を向けた。そして次の瞬間、ビルドの身体が飛び込んできた。
勢いあまって、二人そろって床に倒れこむ。ごん、と頭を打った気がしたが、それよりも胸に縋りついてくるビルドの方が大事だ。わんわんと、寝落ちる前とは違って大声で泣いている。そうしながらオレに必死に縋りついて、ぼろぼろと涙を零しながらビルドが言った。
「一人にしないでよ…! 勝手に行かないでよ、シドー!」
がつんと頭を殴られたかのような衝撃を、その瞬間オレは味わった。
目を見開き、茫然とするオレに何度も頬をすり寄せて、ビルドが泣いていた。
オレを助けに来た頼もしい相棒。いつもニコニコと笑って、くじける姿を見せない友達。そんな彼が、泣いている。オレが原因で、悲しんでいた。
「シドーが帰ってきてくれて、僕嬉しかったのに…! また一緒に島の開拓したり、そざい島に行ったりできるって、嬉しかったのに。なのに、何で勝手にパーティーから外れるの…!」
良かれと思ってしたことだった。
ビルドのためを思ってしたはずだった。
それなのに、オレの身勝手な行動が、ビルドを泣かせている。
…ギタギタにしなくてはいけなかったのは、オレ自身だった。
それでもそんなことを最初は言うつもりはなかったんだろう。優しいビルドは、オレの意思を尊重してくれていたんだ。だから、勝手に外れて身勝手をするオレを放っておいてくれた。けど、ビルド自身は耐えきれなかった。普段は寝静まっているような夜に来たのがその表れ。寝ている間に、様子を見に来たつもりだったのか。オレが起きていたから、何も言えなかったのか。
目が醒めてオレに触れていた原因も何となくわかった気がする。多分、本当にそこにいるのか確かめたかったんだろう。オレがちゃんとここにいるのかを。
しろじいのいる山頂の神殿に置いて来てから、一度も会っていなかった。ビルドは青の開拓地にいて、オレはからっぽ島中を巡っていたからだ。呼び出されることもなかったから、物理的な距離もあって、顔を合わせることもなかった。
一通り巡り歩いて、気が済んだオレがこの家に戻ったことに気づいたから、ビルドはここを訪れたのか。機会を待っていたのか、それともたまたまなのかはわからない。
こうしてオレに会ったはいいが、本音は心のうちにしまっておく気だったのだろう。何でもないよ、と答えていたのがその証拠だが、強引に引き留めたオレが隣で考えなしに寝ていたから、箍が外れたような感じだった。
一人にしないで、行かないで。
何度もそう涙混じりに訴えられる。
その声を聞きながら、オレはたまらなくなった。
ビルドの脳裏には、今何が過っているだろう。
ビルドを置いてさっさと山を下り、立ち去ったオレだろうか。
ムーンブルクで絶交を告げたあのときのオレだろうか。
大事なビルドを顧みず、身勝手にどっちのオレも背を向けた。もう二度とするべきではないことだったのに。
唇を噛みしめ、ビルドを抱きしめる。こんな風に泣かせるつもりはなかったのに、オレはなんてことをしたんだろうか。
悪い、というのは簡単だ。だが、そんな簡単な謝罪などでこの涙は消えたりしない。それでも言わずにはいられない。
「悪かった、ビルド。勝手にいなくなって、一人にして」
もう何処にも行かない。ひとりになんてしないから。
ともに身体を起こして、向き合って座る。ぼろぼろと伝う涙をさっきのように払ってやりながら、こつんと額を触れ合わせる。
「ビルド。もう一度オレをパーティーに入れてくれ。今度はビルドの意思で」
囁くように希う。そして、間近で潤んだ瞳を見つめて続ける。
「もしパーティーに入れてくれなくても、いつだって傍にいる。嫌だって言っても何処にだってついていくからな。だから、」
なあ、泣き止んでくれ、ビルド。
何処にいたって、絶対に見つけて傍を離れてやらないから。
オマエの前から消えたりしない。
だから、なあ。
ぽろりとビルドの頬を涙が伝う。そして、ゆっくりと瞬きをした後、瞼を伏せてうん、と頷いた。
そんなビルドが愛おしくて可愛くて、たまらなくなる。オレは黙ってビルドを抱き寄せ、同じように瞼を伏せた。
おーい、と手を振る姿が見える。
すっかり元気を取り戻したビルドが、オレを呼んでいた。
すぐさま大地を蹴って草原を駆け抜け、待っていたビルドの隣に立つ。
あれからビルドは一度も泣いてない。逆に笑顔が増えて、嬉しそうだ。何をするにも楽しそうにして、見ているオレも嬉しくなってくる。
オレに向けてくれる笑顔も以前にも増して増えた。恥ずかしそうにはいたっちがしたい、なんて言われたときは胸がぎゅんとしたりもした。
何だかあれ以降、ビルドのことが可愛くて気になって仕方がない。以前の数倍増しでビルドの姿を追っている気がする。
そんなオレを見てルルが、恋ね…とか言っていた気がしたが、何のことかさっぱりだ。恋とは何か近いうちにビルドに聞いた方がよさそうだと考えつつ、今日も頑張ろうと張りきるビルドの背を追う。
あの夜儚く消えてしまいそうだった背中は、もうない。
今は元気に頼れるビルダーの背中になっている。その背をまぶしく感じながら、オレはビルドとの毎日を忙しく過ごしていく。これからずっと、彼の隣で。