終わりの刻 救済




 愛おしい過去の記憶を辿り、再生する。かつて経験した大切な思い出を、繰り返し繰り返し、飽くことなく。移ろいゆく日々には一切目を向けず、何をするわけでもなくされるわけでもない、無為な日々を過ごしていた。
 いつまでも愛おしんでいたい記憶だった。大切に大切にしていきたい。そのために何度だって思い出す。
 それなのに、耳の奥で何度も蘇っていたはずのあの声が、愛しいあの声が今はもう思い出せない。
 交わした会話の数々が、少しずつ少しずつ虫を食ったように欠けていく。
 ずっと憶えていると誓ったはずなのに。てのひらからすくいあげた砂がさらさらと零れ落ちていくように、些細なものから消えていく。
 鮮やかだったフルカラーの記憶は、端の方から静かに色褪せていった。嫌だと抗おうとしても、残酷にそれはくすんでいく。そしてどんなに願ってもそれは色鮮やかな色彩には戻ってくれず、いずれ最終的には思い出すことすらかなわなくなるのだろう。
 永遠なんて――そんなものは、ないのだ。
 否が応でも突きつけられてしまう現実は、無慈悲で残酷でひどく悲しい。
 手繰る記憶が現実だったあの頃だってもちろん苦しいときもあったが、今の比ではないと思う。
 ――やりきれない。
 悲しくて悲しくてたまらない。それでも涙は、疾うの昔に枯れはててしまった。
「……ハハッ」
 諦観の色を滲ませた乾いた笑いが口をついてでた。
 ああ、なんて虚しいことか。
 こんな虚しい日々を、あとどれだけ――どれだけ過ごせばいい。
 あとどれだけ過ごせば、オマエのところへ逝けるんだ?
 なあ、ビルド――……
 けれど、その問いかけに答えてくれる人はすでに亡く。
 隣に視線を向けても、かつてそこにいてくれた大切な存在は、まぼろしとしてさえも現れてくれはしない。
 シドーは肩を落として、首を緩く振った。どろりと瞳の影が色濃くなる。
 そして、緩やかに抜け落ちていく記憶の中に再び浸る。自分を呼んでくれるビルドの声を、思い出すことも出来ぬまま。






 遠い昔、たった一隻の船だけが停泊していた港は、今では日に何度も船が訪れるほど賑やかな場所になっていた。
 多くは近隣の島々からの船で、それぞれの島の特産品を山のように積み込んでくる。また同じ船には観光に訪れ、島の名所めぐりをする者や、人材として島に居つく者も乗ってくる。
 ひとたび船が停泊すれば、積み荷の山に混じって人々が降り立ち、わいわいと忙しなく人も物も行き交って、港じゅうが活気づいた。
 無論、船から降りればすぐに自由というわけではない。物品は決まった場所への輸送がすぐに差配され、人材においては向かうべき開拓地への斡旋も必要だ。観光したいものには案内が必要だし、宿泊する場所の有無も訊ねねばならない。野宿などさせるわけにはいかないのだから。
 そのため、港の各所にはそれぞれの案内を担う人物が配置されている。物資輸送のスペシャリストに、人材斡旋所、観光案内所に救護施設。そしてそれらを束ねる島の代表者が、港にほど近い事務所に常駐していた。
 そのうちのひとつ、観光案内所の列に並びながら、小さく吐息を吐く少年がいた。目的地はこの島の山頂にあるという神殿だった。
 この島において、山頂の神殿は特別な意味を持つ。
 かつてこの世界が消えようとしていたとき、伝説のビルダーと神の力を持った少年が、ともに世界を救う奇跡を起こした場所だからだ。以来、この島も神殿も神聖視され、長く人々に信奉されている。そのため、この島に訪れる多くの観光者の目的地は神殿がメインの場合が多い。
 とはいえ、山頂にある神殿までの道のりは決して易くはない。階段をかなり昇らなくてはいけないし、崖も多い。人々が行き交いすぎてはそれはそれで危険なので、ある程度の入場制限のようなものが設けられていた。
 そのせいもあってか、しばらく待たされる羽目になった少年は、退屈な船旅の直後ということもあってか、落ち着かなさそうにきょろきょろと周囲を見渡した。
 故郷とはずいぶん違って、この島はずいぶん賑やかだ。開拓地の方に向かえばそれぞれ特色のある風景が見られてすごいらしい、と教えられたが、ちっとも想像がつかない。
 それに、この後いく神殿とやらにもいまいち興味がわかなかった。伝説のビルダーはすごい人だとは聞いているけれど、まだ幼い少年には難しいことなんてさっぱりわからなかった。その上、現状目に見える範囲のものは子どもにとってはあまり面白みのないものばかりだ。ひどくつまらなかった。これならおとなしく家で絵を描いていたほうがずっとましだ。
 そう思っても、手は親に繋がれていたし、まだまだ山頂には行けそうもない。退屈で退屈でどうにかなりそうだなあ、とぼんやり考えているうちに、長旅の疲れか、ゆるゆると瞼が重たくなってきた。
 目元を擦り始めた少年に気づいて、親がその身体を抱える。思いきりはしゃいでいたはずなのに、突然ぱたりと眠ってしまうことがある、まさに子どもらしいそれ。少し眠ってなさい、と優しく促す声に、少年はこくりと頷く。瞼を閉じればあっという間に夢の中に引きずり込まれていく。
 程なくして穏やかな寝息がしはじめたが、それはすぐさま賑やかな喧騒に揉まれて消えていった。





 大きなてのひらが見えた。その手はひとまわり小さな手をしっかりと掴んで、ぐい、と力強く引いてくれる。あっという間に身体が浮き上がって、視界がぱっと開けた。
 そびえたつ岩山のひとつによじ登ったのだ。このあたりを見下ろすにはちょうどいい場所で、土地の形がよくわかる。
『どのあたりにするんだ?』
 ばさりと開いた地図を一緒に覗き込む。間近から聞こえる低い声に返事をするわけでもなく、うーんと唸る声は自分のものだ。
 瞳が忙しなく地図と眼下に見える風景とを照らし合わせていた。その様子を黙って見守る気配を間近に感じながら、しばらく迷いに迷う。そして、地図をくしゃりと丸めて隣を見上げた。
『この近辺全部かな。よし、整地しよう』
 とても大変な作業量だというのに、口調は何ともあっけらかんとしていた。それがどれだけ大変なのかわかっているだろうに、黙って聞いていた彼はからからと笑う。
『ハッハッハ、このあたり一帯か! よし、手伝うぜ。行くぞ、〇〇〇!』
 ぶん、と背中に背負っていた大きなハンマーを片手で振り上げながら、もう片手が再び手を掴む。その手をしっかりと握り返して、えいと二人揃って飛び降りた。
 足の裏にどしんと来る衝撃は少しばかり痛かったけれど、二人でがんがんと岩の壁や塊を砕いていくさまは痛快で壮快なことこの上ない。
 あっという間に岩山が崩され、きれいに均される。剥きだしの岩肌は持っていた草原の土にてきぱきと入れ替えられ、赤茶けていた一帯がきれいな緑の広がる土地へと生まれ変わっていく。
 変貌を遂げていく光景を優しく見守る視線を感じた。その視線を感じることが、何だか嬉しくて面映ゆい。自然と口元に笑みが浮かんで、何をするにも楽しかった。
『こんなものかな』
 一通りの作業を終えて、満足そうにうなずく自分の声。草を踏みしめて近づいてきた彼が、くしゃりと髪を混ぜてくる。
 くすぐったいよ! と笑いながら、振り返った自分の手が持ち上がる。その手に大きなてのひらが勢いよく合わされて、ぱぁん、と小気味のいい音が響いた。
 ――その音が聞こえた瞬間、びくりと跳ねて少年は目を醒ました。
 慌てて周囲を見渡すが、そこは眠る前と風景は変わっていない。賑わいは先程より少し落ち着いたようにも見えるが、あまり目立った変化はなかった。
 起きた少年に気づいた親が、そっと地面に下ろしてくれた。とん、と降り立って、思わず周囲を見渡してみる。
 なんだろう。不思議な感覚が、心の奥底からこみ上げてきた。
 妙にそわそわとして落ち着かない。今すぐ走り出したくてたまらなかった。
 でも、何処に?
 行く先がわからなくて進みあぐねる。そのうちに、親の用事も済んだらしい。今夜の宿の場所を確保したちょうどいいタイミングで、山頂の神殿に行ける順番が来たらしい。早速行こうと促され、少年はこくりと頷いた。
 山頂へと続く道は港からも見えるほど近い場所にある。人が多く行き交うからか、ずいぶん整備がされているようで、斜面には足運びをしやすい階段が設置され、かがり火の数が増やされて行き先をわかりやすくしてくれる。案内板もいくつか置かれ、ところどころに休憩できるようにベンチの類も置かれていた。
 その道を一歩進むごとに、妙に気が逸る。不可思議な感覚が背中を押してくるようで、少年の足が速まった。
 最初こそ気乗りしていない様子だった子どもの思いがけない足の速さに、置いていかれそうな親が声をかけてくる。道を外れてはいけないよ、との注意を背中に受けながら、まるで惹かれるように山道を駆け抜けた。
 走って、走って、息が切れる。どくどくと激しく鼓動する心臓が痛い。脇腹も少し痛んで、苦しかった。それでもその足は止められない。
 何故か、頬に涙が伝っていた。
 何もわからないのに、狂おしいほど、何かを求めてる。
 神殿が見えた。でも、そこじゃない。目的地はそれじゃない。
 同じように神殿を訪れている人の波を掻き分けて、危ないよと注意を受けながら裏の急な段差を登った。騒めく人の声が聞こえてきたけれど、止まるなんてことはできやしない。
 はぁはぁ、と息を切らして山のてっぺんにたどりつく。四角い開けた空間に、色褪せたブロックが置かれていた。そのブロックが描く模様に、覚えがある。
「うう……」
 小さく呻いて、頭を抱えながら少年はよろめき膝をついた。突然脳裏に、ばっと無数の光景が広がったからだ。
 あるはずのない記憶の波に呑まれて、はくはくと息をする。
 目まぐるしく脳裏に浮かび上がる記憶の数々。同時に襲いかかってくるさまざまな感情に溺れていく。
 一度には受け止めきれないそれは、少年には強すぎた。気が遠くなり、ぐらりと身体が傾いだ






 海辺の岩肌に腰を下ろして、静かに時を過ごしていた。
 この場所は特に思い入れが強く、開拓の手を伸ばすことを禁じてきた。一応口伝としてそれは伝わっているらしく、長い年月を経ても変化はない。
 ある程度、自然の風化による劣化などが加わってはいるものの、シドーの記憶のそれと大差ない。
 ぽろぽろと零れ落ちていく思い出の中で、ここだけはいつまで経っても変わらなかった。そのことに安堵しながら、シドーは海風が肌を撫でていくのを黙って感じる。
 あの日も、風が吹いていた。二人揃って砂浜に足跡を残し、波にさらわれていくさまを眺めながら歩いていた。
 初めて出逢ったこの場所で、新しい明日をまた一緒に進んでいく誓いをたてたのだ。
 けれど、その誓いをたてたはずの大切な存在は、今はいない。シドーをひとり残して、いなくなってしまった。
 ともに歩んでいこうと手を繋いだのに、もうこの手を握り返してはくれない。
 何度ここで、消えた手を探しただろう。
 見えない姿を何度求めて、この浜辺じゅうを探しまわっただろう。
 もういないことはわかっているのに、そうせずにはいられなかった。数えきれないほどの朝と夜を迎えても、シドーはときおりそうやって探してしまう。
 そしてそのたびに、失ってしまった存在の大きさに慟哭して、くずおれるのだ。
 深い溜息が唇から漏れた。
 重い疲労が身体を蝕む。心が鉛を含んで、身も心も何もかもが重苦しい。
 虚しさが胸を締め付け、薄暗い世界にぽつんと取り残される。
 ――しばらくして、シドーはのろのろと立ち上がった。何処か他の場所の思い出を辿りに行こうかと思ってのことだ。しかし、山頂に続く方角から聞こえてきたざわめきがシドーの足を止めさせた。
 なんだ? と首を傾げる。
 人がずいぶん多くなった島での喧騒は珍しくないが、まるで戸惑っているかのようなざわめきは聞いたことがない。
 まさか、しろじいに何かあったのか? とシドーは表情を険しくした。滅多に会話はないものの、おおきづちの姿をしたいにしえのビルダーには、何かと世話になっている。何かあったのなら手を貸してやらなければ。
 急いで山頂方面に向かった。手っ取り早く崖を駆け上がり、山道をショートカットする。一気に駆け上がっていくシドーのスピードに、山道にいた人間たちが驚きおののいているのを感じるが、そんなことはどうでもよかった。一刻も早く山頂につきたい一心で、全力に近い力を発揮する。
 瞬く間に頂上が近づいてくる。神殿の階段を駆け上がり、しろじいがいつもいる場所を注視する。けれど、しろじいの気配は感じるものの、その姿は何処にも見当たらない。
 突然現れたシドーに驚く人間の視線をひしひしと感じる。けれど、ざわめきが促すようにその視線を別の場所へといざなっていく。それにつられて、シドーも目線をそちらへと向けた。ざわめきの中心地、その根源を注視する。そしてそれを認めた瞬間、シドーの赤い瞳が驚愕に見開かれた。
 山頂のさらに上。山のてっぺんがほのかに光っていた。
 あの場所には、遥か昔、シドーの大切な存在が作り上げた、この島のシンボルがある。旗こそ今は失われているが、彼が置いたブロックはそのままそこに残っているはずだ。けれど、それ以外には特に何かあるわけでもなく、光源を置いた記憶もない。
 なら、何故光っている?
 シドーはぐっと拳を握りしめ、駆けだした。誰かが勝手に島のシンボルを変えようとしているのかと思ったからだ。そんなことは許せない。あいつが決めた、この島を指し示すものを変えるなんて。
 もしそうなら容赦なくギタギタにしてやるという意気込みを胸に、シドーは一気にてっぺんへと降り立った。長い年月虚ろだったその身には怒気を孕み、今にも爆発しそうだ。
「誰だ」
 ほのかな光を持つものに、シドーは問いかけた。けれど、返事はない。しかもよくよく見れば、松明やランプなどそれに類するものはそこには一切なかった。ただ、淡い光だけがそこを照らしている。
 なんだ? と眉を寄せながらシドーはゆっくりと近づく。淡い光は細長く、ヒト型をしているように見えた。
 ふわりと淡い光が揺れる。そして淡雪のように儚くその光が消えた瞬間、シドーは再び瞠目した。
「……………、な、」
 言葉をなくし、怒りに任せて握りこんでいた手がだらりと力を失った。目の前の光景が信じられず、茫然とする。
 よろよろとよろめいて、間近に膝をついた。触れるのが恐ろしく、恐々と指先を伸ばす。
 ひとたび触れれば瞬時に掻き消えてしまうのではないかと、そんな風に考えて躊躇った。けれど、何度瞬きしても目の前にいるそれは消えない。
 それでも――すぐには触れられなかった。
 黙り込んだシドーの頬に、一筋の滴が伝い落ちる。声もなく。
 これは現実なのか。あるいは夢なのか。願望が見せたまぼろしなのか。確かめるのが恐ろしい。
 強大な力を持つ破壊神にさえ、迷いなく立ち向かっていったというのに。
 情けなさに思わず笑ってしまった。どれだけ心をとらわれているのか、と。臆病者めと己を叱咤して、固く瞼を伏せた。くすんだ思い出がすぐさま瞼の裏に蘇り、そこに懐かしい笑顔が浮かぶ。
 もう思い出せもしない声が、耳の奥で響いた気がした。










 痛ましい視線を感じる。のろのろと振り返り、そこにいたおおきづちに曖昧な笑みを見せた。
 先程は姿を見せなかった彼からは、何かもの言いたげな気配を感じる。しかし、シドーは緩く首を振って、黙り込んだ。
 先程、シンボルマークが描かれている場所から少年を下ろしてきた。ぴくりとも目覚めはしなかったが、呼吸は確かにしていたことに安堵していると、慌てた親が駆け寄ってきた。そいつに少年を引き渡して、別れたばかりだ。
 倒れていた彼は、恐る恐る抱き上げても一度も目を醒まさなかった。そのことにほっとしているのか、残念がっているのか自分でもわからないまま、神殿の奥で座り込む。
 今でも信じられなかった。記憶の中にあるよりもはるかに年が若かったが、見間違えるはずもない。
 褪せていく思い出の中で笑ってる、シドーの何より大切な存在に瓜二つだった。
 けれど、きっとそれだけだ。
 世界中を探せば、自分によく似た人物が何人か見つかるという。だったらそれは、シドーの大切な彼にも当てはまる。
 きっとあの少年は、ただ似ているだけの存在なのだと、そう考えようとしている。
 だって、そんな都合のいいことがあってたまるか。
 何年、何百年が経ったと思っているんだ。気の遠くなるような時間、ただひとりで過ごしてきたのだ。いきなり似ている人物が現れたからと言って、彼だなんて思えるはずもない。
 それなのに、狂おしいほど逢いたい。今すぐ山を駆け下りて、あの子がいるであろう宿に行ってみたい。起きた彼と話をしてみたい。オマエは彼なのかと訊ねてみたい。
 けれど、――違ったら?
 単なるよく似ただけの、赤の他人だったなら。それこそ砕け散ってしまいそうだ。
 顔を覆って、シドーは深く溜息をついた。硬く閉ざした瞼の裏に、あの少年の顔が何度も浮かんでは消えていく。
 大切な彼ではないのに、いつまでも記憶していた彼の姿が、あの少年のそれと入れ替わってしまっている。それが申し訳なくて、恐ろしくて、いたたまれない。
 ぼろぼろになった記憶が、新たに見たたった数分単位の記憶に塗りつぶされていく。そんなことはあってならないのに、きれいな色に取って代わられる。
「――ビルド」
 愛しい名前を呼んだ。先程まですぐに思い浮かべることが出来たはずのあの笑顔が、浮かばない――…
 黙って頭を抱える。きっとこの現象は今だけで、すぐに思い出せるはずだ。遠い遠い記憶の中の、あの笑顔を。



 ―――そんな苦しみを抱えているシドーがいる山頂から少し離れた、港にある救護施設に少年は横たわっていた。
 不思議な現象の源にいたために、気にした親がまずは救護施設に連れてきたのだ。しかし、外見上には怪我もなく、熱もない。ただ静かに眠っているだけだった。
 安心して宿に連れ帰っても大丈夫だと言われたものの、やはり気になってそのまま救護施設に置いて貰っている。
 陽は陰り、もうすぐ夜になろうとしていた。この際宿はあきらめて、一晩をここで明かすつもりなのか、親はその旨を伝えに一度施設を出ていった。
 静かな部屋にぽつんとひとり寝かされて、少年は静かな寝息をたてる。
 その枕元に、ふわりと白い何かが姿を現した。おおきづちだ。彼は静かにそしてまっすぐに寝ている少年を覗き込む。何かを検分するように真剣に。
 そして、その小さな身体が大仰に跳ねて、ぴょんぴょんと飛び回った。次いで、ふぉっふぉっふぉと軽快な笑い声をあげるとともに、ふっと姿を消す。
 気配がきれいに消えるとともに、閉ざされていた瞼がぴくりと動いた。
 ゆるゆると瞼が持ち上がり、ぼんやりとした瞳が現れた。そのまましばらく天井を眺めていたが、突然がばりと起き上がる。そして慌てたように靴を履くと、急いで部屋を飛び出した。
 静かに寝ていたはずの少年がいきなり飛び出してきたものだから、救護施設の人々はひどく驚いて固まっている。その隙に設備や人の間をすり抜けて、ぱっと外に飛び出した。
「何処に行くんだい!?」
 遠く、親の声が聞こえてきた。けれど、振り返っている暇はない。
 抱えられておろされた山道を、昼間のときのように駆けのぼる。一刻も早くいかなければいけなかった。
 頭の中に、たくさんの記憶が浮かんでは胸を衝いた。とても大切な記憶だ。この記憶の一番最後に、捨て置けない感情がある。
 どうしても、どうしても今行かなければならないと思った。
 だってこんなにも、求めてる。
 狂おしいほど、今すぐ逢いたい。
 息が切れる。跳ねた鼓動が苦しい。それでも無我夢中で走って、走って、山頂の神殿に駆け込んだ。
 ふわりと白いおおきづちが現れる。彼は何もいわずに、すっとひとつの方向を示してくれた。そこに、いる。
 ひとつ頷いて、走った。神殿の奥にある、ぽっかりと開いた空間に飛び込む。きょろきょろと探すまでもなく、彼はそこにいた。俯いて、固く瞼を閉じている。
 他人の気配には敏感で、モンスターが来ればすぐに駆け付けてくるほど周囲をよく見ていたのに。こんなに近づいても気づかないなんて、と息が詰まった。
 何だか声をかけあぐねてしまう。けれど、目の前にいるのだ。
 彼が、目の前に。
「……………………シドー」
 ぽつりと、知らなかった名前が口を突いて出た。その瞬間、びくりと彼の肩が揺れた。そして勢いよくこちらを見た彼の顔が、驚愕の色濃く歪んでいた。
 けれどその顔は、記憶の中にある彼そのままだ。ちっとも変わっていない。
 もの言いたげに彼の唇が動いた。それが何を言おうとしているのか、ちゃんとわかる。
「僕だよ。シドー」
 その問いかけに、はっきりと答える。
 何がどうなっているのかわからない、とでも言いたげな表情が彼の顔に浮かぶ。実のところ、自分自身でも何が起きているのかはさっぱりわからないのだけれど、今はそんなことは些末なことだ。
 だからあのとき、最期にどうしても、どうしても叶えたかった願いを言葉にする。
「逢いたかった」
 君に、もう一度。
 赤い瞳が瞠目する。躊躇うように、腕が伸ばされる。記憶にあるよりこの身体は幾分も小さいけれど、それでもかまわないならもう一度。
「ビルド」
 低い声が震えていた。やっと呼ばれたその名前が胸に来る。思わず彼の名前を呼び返すと、再び名前が呼ばれた。
 飽くことなく何度も互いの名前を呼びあう。恐る恐る伸ばされた腕が、ようやく背中にまわった。
 力強く抱きこまれ、懐かしさに息が詰まる。つんと目と鼻の奥が痛くなって、ぼろ、と涙があふれた。
 そうだ。ここに、帰って来たかった。
 ここに戻りたくて、仕方なかったんだ。心の底から安心して、ほうっと息を吐く。
 様々な感情が巡り巡って、どうにかなってしまいそうだった。
 でも、そのまえに言わなければ。
「シドー。………ただいま」
 その言葉に、しっかりと抱きしめてくれていたシドーの腕が緩む。
「ああ。…お帰り、ビルド」
 ほんの少しだけ離れて、しっかり瞳を見つめて返してくれた返事が、何よりもうれしい。
 お互いに涙目で少しばかり情けない顔をしていたけれど、胸の中はとてもあたたかくて幸せだった。
 けれど、今後の課題はたくさんある。
 どうしてこんな風に再び逢えたかの謎も、放り出してきてしまった親への説明も、記憶があふれて何がどうなっているのかわからない部分の解決もしなければいけない。
 きっかけはたぶんあの夢で、シンボルマークに残っていたビルダーの気持ちのかけらが開きかけた記憶の扉をこじ開けたような感じもしたけれど、詳細はいまいち不明た。
 それに、こんな幼い姿じゃシドーの傍にいるのも色々な意味で憚られる。
 もうちょっと成長してから逢いたかったなあ、なんてことがちらりと頭の片隅を掠めたが、ぎゅう、と抱きしめてくれるシドーの腕の中がひどく心地よかったから、それ以上考えるのはやめることにした。
 今はもうしばらく、この再会に浸っていたい。
 そう思って、そっと静かに瞼を伏せた。