まだ早いんだってば!




 ひゅるるると何かが落下した音がした。
 その音の聞こえた方へ、シドーは何の警戒心もなく向かった。ビルドは安全な家のキッチンで新作料理を試行錯誤中だし、モンスターの気配も近辺にはない。少しくらい離れても大丈夫だと踏んでのことだ。
 周囲を軽く見渡しながら、落下物を探す。音は軽そうな感じだったから、大きなものではないだろう。
 ちょっとした物探しは、暇を持て余した身にはちょうどいい。それでもビルドが不意に何か思いついてふらりと何処かに行ってしまわないように、そちらの気配はしっかり把握しておくのを忘れない。
 そんな中、しばらく周辺を探っていたシドーの視界に、ようやく探し物らしき物品が入った。厚みはさほどないが、サイズはほどほどだ。
 なんだ? と首を傾げながら近づいた。草むらに紛れてはいるものの、表の色彩はずいぶん目立つものだ。軽く屈みこんで拾い上げれば、それがいわゆる本と言われるものだと気づく。
 朧げに何処かで見たような本だなと記憶を手繰る。確かこれは、……監獄島で。
 見かけた場所を思い出してシドーの眉間に軽く皺が寄った。あの島では強制的にビルドと離れ離れにさせられ、暇を持て余させられ、退屈で退屈で仕方なかった。存分に暴れられず、することもほとんどない上に、ビルドだけがずいぶんな苦労をした。肝心なときに何も手助けしてやれないのは嫌なものだ。おまけに、懲罰房ではいやな夢も見た。あまりいい思い出はない。
 それでも、似たものを見かけたのは確かにあの島だった。看守が見かけたら置いておくようにいっていたはずだ。
 あのときは中身が気になったが、「シドーにはまだはやい」とビルドに言われて引き下がったのだ。だが、あれからずいぶん経った。「はやい」なんてことはさすがにもうないだろう。
 ………と思ったのだが、シドーは何となくその表紙をめくるのを躊躇った。誰も見ていないのだから思いきって開いてみればいいとは思うのだが、何となく気が引ける。
 しばし逡巡したのち、結局シドーは本の中身を見るのはやめた。落とし物だと拾って持っていくようにとどめようと、ビルドがいる家に足早に戻る。その手に抱えたピンクの表紙に、少し離れたところで一部始終を目撃していたポンぺとドルトンが顔を見合わせていることには気づかずに。






 それからちょっと大変だった。
 シドーが持っていたピンク色の表紙の本を見るなり、ビルドがどんがらがっしゃんと作ったばかりの料理をひっくり返したからだ。
 やけどしていないかと慌てたシドーが近づくとともに、必死にビルドが肩を鷲掴んでくるのには驚いた。
「し、し、し、シドーっ!! それどうしたの!? な、中身見た!? 見てない!?」
 あわあわとやたら焦って問いかけてくる勢いに呑まれて、落ち着けと宥めはしたが、ビルドは泡を食ったように訊いてくる。なので一応ではあるが、何も見てないぞと素直に答えると、あからさまにほっとした様子でそれはそれは深い溜息を漏らした。
 よかった……としみじみ呟く声に、やはり中身は見なくてよかったのだと確信する。これだけ慌てているのだ、勝手に見たりしたらビルドは悲しむんだろう。
 大切な相棒を悲しませるのはまっぴらごめんだ。
 それから、ビルドはピンク色の本を預かるよと受け取って袋にしまい込んだあと、床に散乱した料理を片付けはじめた。手伝おうかとも思ったが、ビルドは手際よくあっという間に片づけてしまう。こんな風に散乱したものを片付けるのも器用にこなす相棒に改めて感心しながら、シドーはそれでこの話は終わりだなと思っていたのだが。
 バターン、と勢いよく開いたドアとともに、どたどたと家に入ってきた複数の足音にすぐさま眉を顰める。振り返れば、わらわらと入ってきたのは島中の男たちだった。彼らはやたら真剣なまなざしでシドーを見て、ぐいぐいと近づいてくる。
「な、なんだ?」
 いつになく遠慮のない距離感で真っ先に迫ってきたのはポンぺだった。やたら仲良し三人組をアピールする彼は、ときどきこうして暴走するきらいがある。その彼が、目を血走らせて発した言葉に、シドーは思わずはぁ? と抜けた声を上げてしまった。
「シドーさん、ずるいッスよ!! オレたちにも見せて下さい!! あの!! 本!!」
 拳を握りしめて声も高らかに言いだされ、何事かと思ってしまう。しかし、本と言われて心当たりがあるのは先程のものしかない。が、あいにくそれはもうシドーの手元にはないのだ。
「もう持ってないぞ。ビルドに渡した」
 あまりにも素直にそう答えるものだから、矛先はすぐさま片づけを済ませたばかりのビルドに変えられる。シドーに迫っていたむさくるしい面々が、一気にビルドの方に向かっていった。あっという間に男たちに取り囲まれて、哀れっぽい声を上げながらあの本を見せてくれと懇願する面々に目を白黒させるしかない。
 いったい何でそこまであの本が見たいのかと首を傾げる。そして、ずいずいと迫られ焦るビルドが、今はだめ! と悲鳴を上げているのが耳に入るが、彼らは引き下がらない。
「頼むぞビルド!! おいらたちもう限界なんだ!」
「このままじゃ枯れちまう、オカズを、潤いをオレたちにくれ!」
 いったい何が限界なのか。だいたいおかずならいつもテーブルの上に並んでいるだろう? とシドーは思った。しかし、どうにもそんな易いことではないらしい。
 簡単には引き下がらず、血走った目が爛々している男たちの勢いにとうとう屈して、ビルドが袋の中を探り出す。わっと沸いた男たちはやたらはしゃぎまくり、今か今かとそれの登場を待っていた。やがて、袋から一冊の本が取り出され、あのピンクの表紙が視界を掠めた。
 その矢先、我先にと男たちが伸ばした手が、ビルドの手にある本を鷲掴む。あ、とビルドが声を発する間に、オレが先だ、いーやオレが先だ! と我先に手に入れようとする男たちの争いが始まって、ピンクの表紙が宙を舞った。
 あっちにいき、こっちにいきと宙を跳ねまわる本。ごたごたになった男たちの間を縫って何とか逃げ出したビルドが、よろめきながらシドーの傍に座り込む。
「……そんなに大事な本なのか、あれ」
 半ば茫然としながらビルドに訊ねてみるものの、ビルドはぐったりとして何も答えてはくれなかった。
 醜い争いがしばらく続く。これでは新たな料理を作ることも出来やしない。さてどうするかと腕を組んでシドーは思案した。
 ぶん殴って男たちを追い出しても別に構わないのだが、基本的に平和を好むビルドはそれを望まないかもしれない。今は疲労感から座り込んでいる相棒がどうするのかとちらりと隣を見てみるが、彼は何も言わず乾いた笑いを浮かべるのみだった。
 それからほどなくして、あちこちを跳ねまわっていた本がいきなり高く飛ばされた。誰もキャッチできぬまま、それがふわりとシドーとビルドの方へ飛んでくる。
 そして、あっ、という声とともに、その本が二人の前にばさりと落ちた。開いた状態で。
 まさに不可抗力による大事件だった。情けない悲鳴がやたらあちこちから聞こえ、耳をつんざく。しかし、シドーはそれどころではない。
 シドーにはまだはやい、と言われていたのだ。それなのに、視線を背けるのが遅れてしまった。そのせいで中身をばっちり見てしまったのだ。
 どんなすごいことが書かれているのだろうかと、興味がなかったわけではない。けれど、こんな不意打ちで見てしまうようなことが起きるとは。
 思わず中身に視線が釘付けになる。見開きになった本の中で、肌色の女が見えた。何やらだいたんなポーズをとっているが、それだけだ。男たちが群がるくらいだから、何か強さに関係あるものの類かとも思ったが違うらしい。
 しかし、中身を見た男たちにとっては違うようだ。そこここでうおおおだの、うっだの、やべぇだの、変な声が聞こえる。中には何やら前かがみになって、こそこそと出ていく者もいた。そんな様子を他人事のように眺めつつ、一体何なんだと眉を寄せる。ただの女が映っているだけじゃないか。
 そんなシドーの様子を見ていたポンぺが、マジっすかシドーさん…と茫然と呟く。続いて信じられん、とドルトンが天を仰ぎ、ミルズとマッシモが好みの問題なのか!? と騒いでいた。だから何なんだと思ったが、慌てて床に落ちている本を拾ったポンぺがぱらぱらとページをめくり、これこそは! と思った部分を見せてきた。
「これならどうッスか!!」
 うりゃ、とばかりに眼前に突きつけられたそれには、全裸の女が開脚して横たわっている絵面だった。肝心のそのページを開いているポンぺが鼻血を出していることの方が気になるが、これが何なんだ? と言えば信じられないという顔をされる。
「おいおい…嘘だろ」
「いや、やっぱり好みの問題だろう。シドー! この女の子じゃなくて、好きな子がこんな格好していると想像してみろ」
 こそこそとポンぺの後ろで話し合っていた男たちが、想像力を働かせろと言わんばかりに言ってくる。
 無論、意味がわからずにはぁ? と首を傾げればいいから! と促された。
 好きな子? シドーは腕を組みなおして考えた。うーん、と唸って考える。
 好き……、好きな子………好きな………
 思案するシドーを見て、ごくりと男たちが息を呑んだ。
 そして、その隣で破壊力のある絵面を見て固まっていたビルドが、ようやく我を取り戻す。
「~~~!!! ちょっと、ポンぺ! みんな!! シドーに、シドーになんてことを!!」
 泡を食って立ち上がったビルドは、さらに破壊力のあるページを見て顔を赤くした。慌ててポンぺの持っていた本を奪い取り、急いでページを閉じる。そしてぽかぽかとその場に残って煽っていた面々を拳で殴り始めた。
「シドーが、シドーがああああ!!」
 外野で聞こえる悲痛な声を耳から素通りさせながら、じっくりと考えているシドーをよそに、全員がビルドの拳の餌食になっていく。ビルダーハンマーで殴りかかられないだけましだと思うものの、それなりに痛いらしく、悲鳴があがっていた。
 そんな中、懲りずにシドーを注視していたらしいポンぺがあっと声を上げた。素っ頓狂な声音に驚いて、誰もがそちらに視線を向ける。ぽかぽかと殴っていたビルドの手もさすがに止まった。
 なんだなんだと視線を集めたポンぺが、ぷるぷると何かを指さした。その方向にみなの視線が注がれる。そして、誰もが言葉を失った。
 衆目を集めた先にはシドーがいた。考え込んでいる彼の下半身に注目が集まる。そして、唖然とした声があちこちで聞こえた後、自信を失ったらしき面々がのろのろと出ていった。辛うじて踏ん張った一部の者は、それでも口元をひくつかせながら変貌を遂げていたそこから敢えて視線を逸らしつつ訊ねる。
「し、シドー。誰を想像したんだ?」
 さっきまで無反応だったというのに、ちょっと目を離した隙にこれほどになったのだ、興味が惹かれないわけがない。
 ごくりと息を呑む面々に注視されているのに気づいて、ん? と首を傾げたシドーは、いともあっさりと答える。
「好きな子で想像しろって言われたからな、ビルドで想像した」
 さらりと発せられた内容に、シンと静まり返る。その数秒後、野太い声があちこちであがり、全員の視線がシドーからビルドへと向けられる。
 突然の爆弾発言に赤い顔で固まっていたビルドが、注目を集めてしまったことに気づいてさらに赤くなった。さっきまでわあわあとシドーに本を見せたことを怒っていたのに、今ではその怒りを忘れてしまっている。
 これは、実のところ、シドーに見せて結果オーライだったのでは? という考えがそれぞれの脳裏に浮かんだ。そして、互いに顔を見合わせてそそくさとキッチンから去っていく。ビルドが手にしていた本は、預かっておきますねとさりげなく持ち去られ、あれほどむさくるしかった空間はあっという間にシドーとビルドの二人だけが取り残されてしまった。
 何とも言えない沈黙がその場を支配する。しかし、それを先に打破したのはシドーの方だった。
「おい、ビルド」
 突然呼びかけられ、ぼうっと固まっていたビルドの肩がびくりと揺れた。何、と返事をした声が妙に上擦ってしまったのは仕方がない。そんな彼の様子をさして気にするでなく、シドーはがしがしと頭を掻いて続けた。
「あいつらが好きな子で想像しろっていったのはなんでだ? よくわからん。あと、…さっきから股間が痛いんだが」
 さっぱりわけがわからないまま想像したら、いきなりむずむずとし始めた自分の身体の変化に戸惑うシドーに対して、ビルドはわなわなと震えてやがて顔を覆ってしまった。
 泣いたのか!? とすわ慌てたシドーだったが、ビルドから聞こえた小さな『純粋無垢なシドーがあああ』という情けない声にはあ? と首を傾げざるを得なかったのだが、ややあって顔を上げたビルドがうっすら涙目で見てくるものだから、どきっとしてしまう。その瞬間、またいたらぬところがおかしなことになったのだが、敢えてそれは言わずに黙っていると、ビルドはあの本の謎について教えてくれた。
 しかし説明されてもいまいち理解できない。あれを使うってどういうことだと思う。マスターなんとやらとはなんだ、強いのか?
 性教育が一切追いついていないシドーに説明しきるには、ビルドだけでは到底無理だ。匙を投げてしまいたいが、中心の破壊神を何とかしないとどうしようもない。
 しまいにビルドが顔を赤くして、それなんとかしよう、と促しても結局理解には至らなかったシドーだったが、曖昧に教えてくるビルドに実践を強要した挙句、それを見ていてようやくあの本の必要性を理解した結果、再びビルドに泣かれたのは言うまでもない。
「だからシドーにはまだはやいって言ったのに!!」
 そんなビルドの悲鳴は、情けなくからっぽ島に響き渡った。