悪夢の果てに




 ぞっとする記憶を無理矢理引きずり出されて、身体中が動けなくて、怯えて震えて恐くて、ただ、恐くて。
 金縛りにあったかのように、指先ひとつ動かせないのに、もう二度と味わいたくない記憶そのものが目の前で映像として流れている。
 いやだ、見たくない。
 目を背けたいのに身体がぴくりとも動かせず、強制される光景にがたがたと震える。あげたはずの悲鳴は音にすらならず、塞ぎたい耳元で聞きたくない言葉が繰り返し囁かれる。
 恐くて、おそろしくて、必死にもがく。
 なのに、嗚呼。
 味わいたくない絶望が、そこにあった。





「……ルド………、…い………! ビルド、起きろ!!」
 唐突な怒声に、ハッと急速な覚醒を促される。
 カッと瞼を開いた瞬間、どっと冷や汗が流れるのがわかった。
 はぁはぁ、と荒い呼吸を繰り返した。茫然と天井を見上げながら、さっきまで動かなかった身体を動かす。
 ひどい疲労感だった。
「おい、真っ青だぞ…大丈夫か?」
 不意に、隣から声が聞こえた。のろのろと視線を向けると、気遣わしげにこちらを見ているシドーと目が合う。彼は訝しげにもしていた。
「ずいぶん魘されていたぞ。…ひどい汗だ」
 汗のせいか、額に張り付いた髪を払うように手が触れる。確かなあたたかさを感じて、同時にこみ上げてくる感情を持て余して、ビルドはぎゅう、とシーツを鷲掴んだ。
 そんなビルドを見て、覗き込んでくるだけだったシドーがベッドの端に腰を下ろした。ぎし、と軋む音とスプリングがその重みの分だけ傾く。その感覚に、ぱちぱちと瞬きを繰り返して、現実味を感じた。
「悪い夢でも見たのか?」
 優しく、いたわるようにシドーが背中を撫でさする。あたたかなぬくもりがじっとりと濡れたパジャマ越しに伝わってきて、強張った身体がゆるゆると解れていくのがわかった。
 ――悪い夢。
 そうだったのだろうか。嫌なリアル感、妙にはっきりした声、記憶に残る過去の出来事を見事に再現し、突きつけられた再度の絶望に、震える。
 言葉にならなかった。
 あれは、悪夢と言っていいのか。絶望を追体験したと言えばいいのか。それとも。
 思い出せば思い出すほど、恐怖が襲いかかってくる。恐さに自らを掻き抱けば、シドーは撫でさするのをやめてぎゅ、と抱きしめてくれた。
 力強く息づく存在感に、迷わず縋る。必死に抱きついて、身を寄せた。恐さから逃れたくて、シドーの肩に額を押しつける。ぎゅ、と強く目を瞑って、ぞわぞわとする感覚から気を逸らせたくて、唇を噛んだ。
「――大丈夫だ」
 低い声が落ちてくる。
 がちがちと震える身体を優しく、けれどしっかりと抱き返して、落ち着いた声音が響き渡る。
 耳から、抱き合った身体から、じわりと伝わって、染みわたる。
 力が、抜けた。
 強張りは緩やかに解け、震えがゆっくりとおさまっていく。血の気が失せるくらいに縋りついた指に血色が戻り、どくどくと跳ねていた心拍が穏やかになっていった。
「ビルド」
 再び、低い声が落ちてくる。
 耳に優しくなじむ、快い声。呼ばれておずおずと顔を上げた。相変わらず気遣わしげに見てくるシドーと再び目が合って、状態を確かめられたのがわかる。
「……ごめん。もう大丈夫だよ」
 ようやくそれだけを口にして、ビルドはシドーから手を外そうとした。それなのに、手は言うことを聞かない。
 そんなビルドの様子に、ちっとも大丈夫そうじゃないな、とうろんな目を向けたシドーは、少し考えるそぶりをした後、ビルドをベッドから引きずり出した。
「風呂入るぞ!」
 抱き着いたままのビルドの状態をこれ幸いとして、ひょいと膝裏をさらったシドーの唐突な行動に、あっけにとられる。
 え、え? と事態を飲み込めないまま、すたすたと浴室に連行されて、寝汗を掻いたパジャマを剥かれた。あっという間に全裸にされて、次いでにビルドを抱えたまま器用に寝間着を脱いだシドーは、迷わずシャワーの蛇口をひねった。
 ざあっと頭上から湯が降り注ぐ。その熱さにびくりとして初めて、掻いた汗で身体が冷え切っていたことに気づいた。
 同時に同じ湯を浴びながら、しかし一度たりとも抱擁を解かないシドーとともにぬれねずみになっていく。さっきまで汗で張り付いていた髪は取って代わった湯で張り付き、同じようにシドーの髪も濡れそぼる。
 あたたかい湯がまとわりつき、流れていくのを感じながら、視界を占めるのが湯けむりとシドーの姿だけになっていく。
 見えるのが、それだけ。
 触れるのは、お湯とシドーの身体だけ。
 ただそれだけなのに、心の底からほっとする。
 ぼろりと、不意に涙があふれた。
 いきなりのそれにシドーは何も言わず、唇を寄せて湯に混じって消えてしまうそれを吸い取ってくる。
 優しい感触に、余計に泣けた。そして、安心した。
 恐いものは、もうない。
 強制的に蘇った記憶は、もうただの記憶でしかない。
 現実はこんなにもあたたかいのに、もう過ぎた過去に怯えて、何をしているんだろう。
 ビルドはすん、と鼻を鳴らした。そして、優しく目元に口づけてくるシドーの頬にそっと触れる。唇が移動して、わかってると言わんばかりに唇が重なった。
 重ねた唇が愛おしい。恐れて縮こまっていた心があたたかくなり、すべてが拭われていく。
 優しい感触に浸り、すべてを忘れた。





 すっかり落ち着きを取り戻し、血色も良くなったビルドを伴って、シドーは風呂から出た。濡れた身体をおざなりに拭いて、自分のベッドの方へともに潜り込む。
 着替えは、なんて野暮なことはどちらも口にしない。
 ただ今は愛おしみたい。
 間違いなく、恐ろしい夢を見て震えていたビルド。縋りついてくる儚い力がたまらなく、いたわしく愛おしく、心の底から守ってやりたいと思った。
 冷えた身体をあたためて、したいことをしただけだったが、正解だったようだ。
 落ち着いたビルドが、シドーを求めてくる。他の誰でもない、シドーだけを。
 それに応じられる喜びを胸に、静かにその身体を掻き抱いて、二人は目を閉じた。