「――だいじょうぶ。だいじょうぶだよ、シドー。それは夢だ、寝ているときに勝手に見えてしまうだけの、まぼろしだよ…」
静かな寝室に、やわらかな声が響いた。ぽん、ぽん、と一定のリズムを刻みながらビルドの手があやすように背中を擦っては優しく叩く。ビルドの身体を、彼より少し大きな身体がきつく抱き締めているさなかのことだ。
「……ああ」
低い声が、わかってるといわんばかりに頷いた。それでも腰や背中にまわっている彼の腕にはいまだに力がこもったままで、その荒らされた心がちっとも落ち着いてなどいないことを知らしめる。
再びささやくように、ビルドがつぶやいた。
「だいじょうぶだよ……、ほら、僕はここにいる」
胸元に埋まる頭にそっと手をかけて、導くように規則正しく鼓動を刻む心の臓の場所へと尖った耳をあてさせる。
どくり、どくりと確かに息づくその音色。そこで確かに生きている証の息吹の音が、優しくシドーの強張りを解していく。
そのさまを静かに見守りながら、ビルドは手を休めずにシドーを宥め続けた。シドーが再び眠りに落ちるまで――
それが始まった時期がいつなのか、ビルドは知らない。
けれど、ビルドがそのことに気づいた時点で、事態はずいぶん深刻だった。
きっかけは、ある新月の晩のことだ。月明かりもなく星のささやかな明かりも届いていない、真っ暗な夜。物づくりのためのアイディアスケッチをしたくて、少々夜更かしをしていたときだった。
あまりに夜更かしが過ぎて床で寝落ちたらまずいだろ、と一緒に夜更かしをしていてくれたシドーは、そのとき窓の外を見ていた。何が見えるのか、何かを見ているのかはわからない。あるいは何かの気配を探っていたのかもしれないし、そうではないかもしれない。そんなシドーの顔に一瞬浮かんだ苦悶の表情が、たまたまスケッチの手を止めてふっと顔を上げたビルドの視界に止まった。それは刹那の出来事で、瞬きをした次の瞬間にはその名残りさえ残っていない、いつも通りのシドーがそこにいた。窓の外から視線を転じて、終わったのか? と至って普通に訊いてくる。
まるでまぼろしを見ていたかのような錯覚にとらわれ、思わず瞬きをする。そんなビルドを不思議そうに見つめて、シドーが疲れたのかと案じてくる。その顔には先程見たような苦悶の痕跡は一切感じられず、やっぱりあれは見間違いかなとも思ったが、それがいつまでもビルドの心のどこかで引っかかり、もやもやとわだかまっていた。
それから数日後、今度はあろうことかモンスターと戦っている真っ最中にそれは起きた。秒数にして一秒にも満たない、けれど起こるには最悪のタイミングだった。ほんの刹那固まったシドーの動きと、苦悶の表情がやけにスローで見えた。そして、向かってくる強いモンスターが振りかざした一閃が、同様にスローモーションで見える。
「シドーっ!」
思わずビルドは叫んでいた。悲鳴に近かったかもしれない。けれど、もうもうと立ちのぼった土煙が晴れたとき、シドーは無傷でそこに立っていた。土埃やモンスターの返り血でところどころ汚れてはいたが、うまくいなして反撃を決めたらしい。
友達の無事にほっとする。と同時に、ビルドはもういてもたってもいられなくて、大丈夫かと訊ねるシドーの肩を鷲掴み、何があったの、と聞かずにはいられなかった。
驚くシドーに必死に食い下がり、どうしたのかと疑問をぶつける。そんなビルドの身体は震えていて、眦には涙が浮かんでいた。いつにないビルドの剣幕に、最初こそ何でもないと平静を装っていたが、食い下がる友達の頬に涙が伝うのと認めた瞬間、ぽつりと答えを落とした。
「――悪い夢を見るんだ」
けれどつまらない夢だ、と続ける。けれどどうみたってそんな風には見えない。つまらない程度のものなら、あんな苦しそうな顔はしない。
「……シドー」
咎める声に、シドーはしばらく躊躇うそぶりを見せる。しかしビルドのまっすぐ向けられる視線には抗えなかったようで、渋々ながら話をしてくれた。これまで胸の中に秘められていた、あの出来事を。
その内容の痛ましさに、ビルドの胸が痛んだ。
こんな苦しい夢を、何度も何度も繰り返し見てきたのか。
そんな夢を見たくないあまり、睡眠を疎かにしていることも、その結果ときどき一瞬だが意識が飛んで、その僅かな間にさえおぞましい夢を見ることも、初めて知った。
世界を救って、気持ちも新たに開拓を進め、何事も順調に物事が進んでいると思っていた。その裏で、こんなにも友達が苦しんでいる。
ビルドはきゅ、と唇を噛みしめた。
何とかしてやりたい。
けど、何が出来るだろう。
シドーの心の奥深くに根づいている悪夢の原因は、きっとそう簡単には消えてはくれない。それはシドー自身が乗り越えなければならないもので、ビルドがどうこう出来る範疇を越えている。
だったら、何が出来る?
出来ることは、何?
そうして必死に考えに考えて、けれど答えは出なかった結果が、これだった。
眠るのを渋るシドーと以前よりも密に寝起きをともにして、悪夢を見たら必ず起こすことを約束させた。起こしてもらうよりも魘されるシドーの苦しげな呻き声に、ビルドの目が先に醒めることもあった。
彼がどんな夢を見ているのか、ビルドはもう知っている。魘されて飛び起き、真っ青な顔でビルドを何度も確かめる彼の不安げな瞳を何回も見た。そのたびに深く傷ついた彼の心を知り、ビルドはシドーにだいじょうぶだよ、と何度も声をかけた。
安心させるように手を握る。それはやがて背中を擦るものになり、再び寝落ちるまで優しくリズムを刻むてのひらへとなり、優しく抱え込む抱擁へと変わっていった。
そんな夜を何度も越えているせいか、このところ以前にも増して距離がぐっと縮まった気がする。最初は躊躇いがちだった抱擁も今では迷いなく出来るし、何なら抱え込まれて同じベッドで眠ることもある。ビルドを抱きしめて寝るとよく眠れるらしく、その回数はどんどん増えていった。
それでも悪夢はたびたびシドーを襲い、彼を苦しめる。そうそう癒えることのない強烈なトラウマの根強さに、シドーが如何に傷つき苦しんだのかがわかる。
けれど、もうあの赤い水面はない。あれは完全なまぼろしで、そしてシドーがつけた傷は、この身体にはない。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ、シドー」
どくり、どくり。規則正しい音が聞こえているだろうか。ちゃんと生きている証がここにある。何も心配しなくていい。
いつかシドーが乗り越えるまで、何度だってこうして聞かせるつもりで、ビルドは優しく背中を擦り続けた。いつまでも、いつまでも――……
背中を擦るうちに、先に眠ってしまったらしいビルドの規則正しい寝息と心臓の音を聞きながら、シドーは黙ってそのぬくもりを掻き抱いた。
瞼を閉じると、今でもあのまぼろしが目の前に浮かんでくる。怒りに任せて振るったこん棒が、敵を打ち据えたはずだった。それなのに、倒れこんだのは何よりも大切なビルドで。あのときの絶望は、そう容易く忘れられるものじゃない。
しかし現実にはビルドは確かに生きていて、あれが嘘だと今ではわかる。わかっていても、あの光景が何度も瞼の裏で再生される。
悪夢はよりリアルだ。感触も悲鳴も溢れる鮮血も何もかもが鮮明で、それがいっそうこの身を苛んでくる。大切な友達を手にかけてしまった後悔は強く、何度も何度も繰り返されるそれは、罰なのかとも思ったりした。
けれど、そんなシドーの悪夢の内容を聞いてなお、本物のビルドは手を差し伸べてくれた。
だいじょうぶだよ、と優しく繰り返すビルドの声に、どれだけ救われただろう。
ここにいるよと聞かせてくれる心臓の音に、どれだけ胸を熱くしただろう。
以前にも増して、ビルドが愛おしくなる。このぬくもりを離したくなくなる。思わず抱きしめる腕に力がこもり、痛かったのかビルドがうん、と唸った。
慌てて腕の力を緩めて、そっと覗き込む。起こしてしまったかと思ったが、すぐに寝息が聞こえてきてほっとした。
穏やかな寝顔を眺めながら、シドーはビルドがしてくれたようにそっとその背中を擦った。ひとなでするたびに、心の奥底から何かが溢れてくる。……ビルドも、こんな気持ちなんだろうか。
そんなことを考えつつ、静かにそれを繰り返す。
荒んだ心が嘘のように穏やかになっていくのを感じながら、しばらくそれを続けていたシドーだったが、繰り返し感じる優しい刺激にぼんやりとビルドが目を醒ました。とろりと眠気に囚われた瞳が、ゆるりと動いてシドーを認める。そして、のろのろと動いたかと思うと、おもむろにビルドの唇がシドーの目元に触れた。
「わるいゆめ……見ませんように……」
ぽつりと落とされた声と、直後にすうすうと聞こえてきた寝息を聞きながら、シドーは混乱する。
なんだこれは、とあっけにとられ、肌に残る感触とすやすやと寝てしまったビルドと交互に意識をさらわれ、頭の中から何もかもが吹き飛ぶ。
「お、おい、ビルド。今のはなんだ。おい」
さっきまで寝かせてやりたかったはずなのに、今はどうしても起きてほしい。力の抜けた身体を揺さぶって、覚醒を促す。
果たしてシドーは気づいただろうか。あの悪夢も瞼の裏に見えたまぼろしも、今はすっかり消えていることに。
リク内容
悪夢にうなされるシドーを慰めるビルドくん いちゃいちゃ