降り注ぐぬるい湯を全身に浴びる。
乾いた空気にさらされた肌がしっとりと濡れていき、同時に水滴を弾いていく。
疲れた体に快い刺激を受けながら、頭の中は明日は何処に何を設置しようか、それならどの部品や素材が幾つくらい必要だろうかと、そんなことでいっぱいになっていた。
朝目が醒めたときから夜眠る直前まで、時折夢の中でさえ物づくりに思考回路の殆どが占められている。何よりも物を作ること、誰かの役に立つことは嬉しくて好きなことだったから、欠片たりとも苦にはならない。むしろ、もっともっとやりたい。
次から次へと望まれて、悪い気はしなかった。よりいっそう張りきれたしやる気は漲り、様々なアイディアが浮かんでは形にしたくなる。時間が経つのを忘れて、没頭してしまうのだ。周囲が見えなくなると言ってもよかった。
ざあ、と鳴り響いていた水音が不意に止んだ。快く肌を打つ刺激がなくなり、知らない間に瞑っていた瞼を押し上げると、目の前には銀色のタイルが濡れ光っている。頭上から雨のように落ちていたぬるい湯はいつの間にかぴちょん、とほんの一滴、二滴の滴を落とすのみになっている。
あれ、僕止めたっけ?
思考の海に沈んでいると、いつ自分が何をしたのか、しようとしていたのかを忘れてしまう。蛇口をひねった覚えはないんだけどな、と首を傾げるビルドの頭に、突然ばさりとタオルが被せられた。
「わぷ」
思わず小さな声を漏らしたのは仕方ない。大判のタオルは頭全体を包み込んで、視界どころか鼻先まで覆ってしまった。いきなりのことで、吃驚してしまったのだ。
そんなビルドの反応に、後ろからふっと笑う気配を感じて、このタオルを誰がかけてくれたのかわかってしまった。
この数か月ですっかりなじんでしまった、親友の気配だ。ずり、と片手でタオルを持ち上げ、ゆるゆると振り返ると、隣のブースで同じようにシャワーを浴びていたはずのシドーが立っていた。
「いつまで入ってるんだ?」
振り返ったビルドにあきれたようにそう問うたシドーは、その大きなてのひらでビルドの頭に被せたタオルをわしゃわしゃと動かし始める。乾いたそれが水気を吸って、濡れそぼった髪を乾かしてくれるのを感じながら、されるがままになることにしたビルドは、どれくらい時間が経ったのかゆれるタオルの隙間からちらりと外を伺った。ここに入ったとき、空は端の方がうっすらと茜色を帯び始めていたのだが、ガラス越しに見えるそこはもうすっかり暗い。
「え、…今何時!?」
驚いてシドーに問いかけると、もう夜だぞ、とさらりと答えられてしまった。
いや、夜なのはわかる。そうじゃなくて、とビルドが口を開くまえに、シドーは片手をタオルから外してビルドの鼻を軽く摘まんでくる。痛い。そんなに痛くないけど、痛い。
急なことに目を丸くしたビルドは、すぐに離された鼻を慌てて両手で覆い、何するんだよと情けない声音をあげながらシドーを見上げる。そんなビルドに楽し気に笑い声を上げ、再び大きなてのひらでタオルドライを再開したシドーは、毎夕行われる報告会が疾うに終わったことや、バーは夕食タイムを終えて酔っ払いたちが闊歩しはじめていることを教えてくれた。
「ちっとも出てこないし呼んでも返事がないから、何かあったのかと思ったんだぞ」
そういって隠していた鼻の先をまた摘まむ素振りをするシドーの手から軽く身を引いて逃れ、ごめん、と小さく謝罪を口にする。
そんなビルドにシドーはふん、と鼻を鳴らしたかと思うと、新しいタオルを引っ張り出し、ばさりとビルドの細い肩にそれをかぶせてくれた。
「着替えて早く出て来いよ。外で待ってるから、一緒に飯を食って寝ちまおう」
最後にぽんぽん、と軽く頭に手を乗せて促したシドーは、ビルドが頷くのを見るとすぐさまブースから出て行ってしまった。その背中を見送りつつ、また彼の手間をかけてしまったなあと反省する。
モンゾーラにいた頃よりは、世話になる回数はだいぶ減ったというのに、情けない。
体力や気力が続く限り物づくりに没頭していたモンゾーラの時とは違い、ここオッカムルでは夕方に必ず報告会が開かれる。それは作業の手を止めるいいタイミングでもあったし、恐がりのマッシモを地上に送り届けるときもあったから、あの頃よりはずっと生活リズムはよくなっているはずだ。
朝起きて食事をとり、坑道に潜ってトロッコ鉄道の整備や塞がった坑道を開通させ、合間にオッカムルの住民たちの依頼をこなして、報告会の前に作業を止める。時間があれば今日のように早めにシャワーを浴びて報告会に臨み、バーであらくれたちと夕飯とともにしてワイワイと騒ぎ、夜は暗くなりすぎる前に寝床に着けた。
以前のようにシドーに支えられて食事をとるなんてことはすっかりなくなり、ちゃんとした状態で食事にありつけている。……だけど、実のところそれがほんの少し寂しかったりする……いやいや、何を考えてるんだ、僕は。ぶんぶんと首を振り、安心していたぬくもりがすっかり遠ざかっているのを改めて認識したビルドは、何だか落ち着かない気分に陥り再び首を振った。
いけない、シドーが外で待ってるのに。
急いで身体の水滴を拭う。と言っても、殆ど自然乾燥してしまっているようなものだった。おざなりに身体を拭いて、ばさばさと着替える。忘れ物がないか確かめて、大急ぎで外に飛び出した。
「お、お待たせ」
ドアの横で、壁にもたれかかっていたシドーがおう、と返事をする。行こうぜ、と当然のように手を差し出されて、面映ゆくなった。
普段、殆ど意識していなかったが、こうして手を繋いで歩くのが当然になったのは、いったいいつからなのだろう。
おずおずと手を差し出すと、普段と違う気配に感づいたシドーが首を傾げたが、何でもないよと誤魔化してその手を繋いだ。
大きなてのひらはあたたかい。風呂あがりの今は手袋も外しているから、直にそのぬくもりが伝わってくる。無性に胸の奥がざわついて、きゅう、と締め付けられた。
何だろう、この感覚。
だけど、ちっとも嫌な気分はしない。
むしろ甘くて切ないような、幸せなような。不思議で、かつどういうものなのか判別のつかないそれは、ビルドの口元を緩ませる。
さっきまでずっと思考を占めていた物づくりのあれこれが浮かばない。
今はただ、隣を同じ歩調で歩くシドーと、繋いだ手のあたたかさと感触だけに満たされる。
こんなことは初めてで、けれど嬉しくて擽ったい。
「僕、おなかすいたよ」
何でもない話題がするりと口をついてでる。食いしん坊の発言に笑った気配がしたが、バーに行けば仕事終わりの解放感に酔ったあらくれたちに絡まれるぞと言われては、向かう先に迷ってしまう。
「……そうだ、たまには僕が作るよ」
ペロに頼まれて作ったキノコキッチンを借りて、何か作ろう。それをシドーと分け合って、一緒に食べよう。
思い立ったが吉日、ビルドは手を繋いだまま走り出した。急にぐい、と腕を引かれたシドーは、一瞬驚いた様子だったが、持ち前の運動神経ですぐさま追うように走り出す。
繋いだ手がゆらゆらと揺れた。離すまいとぎゅう、と握れば同じように握り返される。嬉しくて、ニコニコ笑うのが止められない。
通り過ぎたバーから、喧騒が聞こえる。あらくれたちの賑やかな笑い声、窘めるペロの明るい声音があっという間に遠ざかる。けれど、つかず離れずの場所からシドーの気配がするから、ちっとも気にならない。
一緒に走って、キノコキッチンで簡単に食事を作る。それを抱えて、あらくれたちと一緒の寝床とは別の場所に、ささっと寝床を作った。おかれたベッドはふたつきり。それから、テーブルひとつと椅子がふたつだけ。ネームプレートも掲げず、ひっそりとしたたたずまいだ。
それでも、部屋の中はあたたかくて、心地いい。
出来立てのごはんを頬張って、くだらない話で笑いあった。
喋り疲れて、寝ようかと立ち上がる。夜もずいぶん更けてきた。早く寝ないと明日に障る。
ふあ、と小さな欠伸を漏らして、ビルドは寝ようとシドーを促した。が、彼は一向に椅子から立ち上がらない。
「まだ寝ないの?」
少しずつ瞼が重たくなってきたビルドとは違い、シドーはまだしゃんとしていた。眠気など感じさせない赤い瞳が、じっとビルドの姿を映している。そして、ゆっくりと瞬きをする動作から目を離せずにいれば、突然身体が引っ張られる。
身構える間など一切ない。眠気を感じていたせいで、気を張ってすらいなかった。
気づいたときには、ビルドはシドーの腕の中に納まって、緩くその腕に囲われているような状態になっていた。あまりにも突然過ぎて、追いつけない。
「え、え??」
何?
何が起きて、
困惑するビルドをよそに、シドーが深く溜息をついた。
それから緩い拘束を外して、ビルドの身体をひょいと抱える。
いとも容易く体勢が変えられ、目を白黒させるビルドをよそに、慣れ親しんだものが完成していた。
「やっぱりこれだな」
いっそ無邪気とも感じられる台詞が間近で聞こえて、状況が理解できないままにシドーを見れば、それはそれは満足そうな顔をして笑っていた。その笑顔にドキリとして、どぎまぎとしながらビルドはうろうろと視線を彷徨わせる。そうして、己のいる場所を認識してようやく気づいた。
ちょっと不安定な、シドーの片足の上。
オッカムルに来てから、一度もしてないこの姿勢。ほんのちょっと前まで当たり前のようにしていたのに、今は無性に懐かしい。きゅ、と胸の奥が掴まれたようで、目の奥が何だかおかしい。
そんなビルドの戸惑いをよそに、これだ、としきりに頷いてから、シドーはビルドを抱え上げた。
「よし、寝るぞ」
状況の変化についていけないビルドは返事も出来ない。
モンゾーラや一度戻ったからっぽ島で、食事の直後に寝落ちていたから知らなかった。シドーが自分を運ぶために、こんな抱き上げ方をしていることを。
無性に、風呂上がりに感じたとき以上の感情に襲われる。眠気などすっかり飛んでしまっていた。
それなのに、落とさないようにしっかりと抱き上げてくれているシドーのぬくもりが、力強さが。そっと気を使って寝床に下ろしてくれる優しさが。そして、同じように隣にごろりと寝ころんだあと、わしゃわしゃと髪を混ぜてくる大きなてのひらが快くて、力が抜けていく。
何を思ってあの体勢をしようと思ったのか、問いかける勇気はなかった。けれど、何だかいい夢が見れそうだ、とも思う。
「………おやすみ、シドー」
ゆるゆると瞼を閉じながら、声をかけた。
「ああ、おやすみ」
当然のように、そう返事が返ってくる。
そんな些細なことが嬉しいな、と素直に感じて、無意識に笑っていた。
ああ、だけど。
眠りに落ちる寸前、ビルドは起きたら注意しよう、と心に誓った。
お姫様抱っこは勘弁して、そう言おうと。
* * *
穏やかな寝息が隣から聞こえる。
シドーは音を立てないよう気を払いつつ、むくりと身体を起こした。そうして隣をそうっと伺い見れば、ぐっすりとビルドが眠り込んでいるのが見える。寝顔は穏やかで、あどけなかった。
起きる気配がないビルドにほっとして、肩から力を抜く。横たわっていた寝床で胡坐を組み、すやすやと寝入っているビルドを眺めながら、久しぶりに過ごす相棒との二人の時間に思いを馳せた。
――新しい仲間を求めて訪れたオッカムルに来てから、まともに二人でいる時間がなかった。
日がな一日誰かがそばにいた。塞がった坑道を広げるにも、道案内のマッシモがいたし、そこここであらくれがツルハシを振るっていた。そして地上に戻ればペロやアーマンをはじめとしたバーの人間がいる。
坑道に働く面々は時間にきっちりしていて、それをシドーやビルドにも厳守させたから、以前のようにビルドが作業に没頭しすぎてしまうようなこともなくなった。
そう、ここオッカムルでは、シドーがビルドに世話を焼く必要がなくなってしまったのだ。
手持ち無沙汰になってしまったのは否めない。しかし、ビルドのやることはモンゾーラのときとあまり変わりはなかったから、何も言わなかった。それに、手持無沙汰なのは夕方以降なだけで、作業中にシドーがやることは通常通りだったから、特に何か文句を言う必要性もないと思っていた。
けれど、何故だろう。
ビルドが食事をとらなかったり、睡眠を削ったりしなくなった、それはとても喜ばしいことだとわかるのに。
きちんと起きて働いて、覚醒した状態のビルドとあらくれも交えてワイワイと騒ぎながら食事をしたり、プールで泳いだり。不満などないはずなのに、シドーは妙な苛立ちを感じていた。
――物足りない。
何が、と言われればそれが何なのかはわからないが。
ずっと引っかかっていた。
腕が、妙に寒々しい。
シドーにとっては儚い程度の重みを、この腕に感じたい。
その感覚は日に日に強くなり、いてもたってもいられないような焦燥感に襲われるようになったのは記憶に新しい。
そしてこの数日、無性にビルドを抱き寄せたくて仕方がなくなっていた。それでもビルドの物づくりの邪魔はしたくないから、ぐっと堪えていたというのに。
とうとう今夜、それが出来なくなってしまった。
いつぶりだろうか。
眠そうにするビルドのあどけない姿を見たのは。
さあ寝よう、と元気よく寝床に飛び込むのではなく、眠そうにして支えてあげたくなるような彼を目にしたのは。何日ぶりだろう。
その姿を見た途端、どうしても。どうしても、したくなった。
一応、堪えようとは思ったのだ。ゆっくり目を瞬いて、気を落ち着かせようと思ったりはした。だけど、ビルドがぼうっと立っていたから。無防備にこちらを見ているのがわかった瞬間、思わず抱き寄せていた。
――懐かしい香りがした。
細くて軽くて、すっぽりと覆ってしまえるビルドの身体。覚えがあるあたたかさ。どくりと強く鼓動が跳ねたのを感じながら、懐かしい重みを受ける。思わず深いため息が零れた。
ああ、そうだ。これだ。これが足りなかったんだ。
得心がいくとともに、何度もその動作を繰り返してきた身体は意識しなくても動いていく。
ビルドが戸惑っているのはわかったが、構わなかった。以前のように片足に座らせて、間近で相棒を見つめれば、日ごろの生活習慣の改善で血色の良さが見てとれる。それ自体には安心して、同時に妙な達成感と満足感を得て知らず笑みが浮かんだ。
「やっぱりこれだな」
自然と口をついて出た台詞に、物足りなかったものが何だかわかった気がする。
一人納得して、慣れ親しんだルーティーンをこなしたのは数十分前のことだ。
満たされた思いはそのままに、しかし妙に目が冴えている。睡魔は多少はあるものの、すんなりと寝れる気がしなかった。
ここに来てからずっと、遠出のとき以外は常にビルド以外の気配があった。筋肉を寄せ合って寝るとか言っていた暑苦しいあらくれたちは、今はいない。そういえば、モンゾーラの時もからっぽ島の時も、だいたい雑魚寝をしていた。たくさんの寝床を並べて、みんなでワイワイと寝ていたから、こうして拠点内で二人で寝るのは初めてだ。
魔物も出ない明るさを保った拠点内で、気を張る必要性もないのに、どうしても眠れそうにない。無理矢理目を瞑っておとなしくしていれば、恐らくそのうち寝てしまえるだろうが、じっとしていられる自信もなかった。
何かが近づいているような気配も感じず、夜遅くまで賑やかなバーも今は静かだ。拠点内は平穏そのもので、シドーが寝落ちてしまっても何事もなく朝を迎えるだろう。
なのに、妙に目が冴える。
小さく溜息を漏らして、夜の散歩でもするかと、そんな考えが脳裏を掠めるものの、ビルドの寝顔から目が離せない。
――そんなとき、不意に、脳裏にある光景が浮かんだ。
唐突なそれは、あまりにも突然でシドーの心拍を跳ねさせる。
食事前にみた、白い光景。シドーの不安をよそに、ぼうっとしていたビルドの姿。声を少しの間かけそこなったのを、今更思い出す。
何故そんなことを思い出したのか、何故妙に胸がざわつくのか、そして浮かび上がる光景を繰り返し思い出してしまうのはどうしてなのか。
口元を思わず片手で覆って、シドーは固く目を瞑る。
また浮かびそうになる光景を振り払うように首を振るが、それは簡単には消えてくれそうもない。
ち、と軽く舌打ちをして、閉ざした目を開けた。するとそこには、先程と変わらずあどけない寝顔のビルドがこちらの気も知らず眠っていて、その姿が重なっていく。
ずくり、と。身体のどこかが、強く反応した。
なんだ。
……なんだ、これは?
その疑問に答えるものは、いなかった。